Another Tommorow
ぺちょり、と冷たい感触が頬を掠めて、飛鳥は絶叫して飛び起きた。この感触には覚えがある。わかっていても、不意打ちだと焦る。跳ね起きた勢いのままそれを掴み取り、弟の顔を睨みつけた。
「大和お前、食べ物で遊ぶなって何年ぶりに言わせんだ!」
「やっぱり起きてたんじゃん」
悪びれた様子もなく、大和は淡々と言った。ため息がこみ上げてくる。
「寝てたって起きるよそんなもん。俺はお前をそんな子に育てた覚えはないぞ」
子どもの時に肝試しで墓場中に響き渡るほどの悲鳴を上げてしまってから、暫く弟は兄をからかうときにこの手を使っていた。成長と共に落ち着いた性格になり、飛鳥のほうが子どもっぽいとまで評されるようになってからは、なくなっていたけれど。
「これ明日煮物にしといてやるからちゃんと洗ってボールに水張って冷蔵庫に返して来い」
自分にみっともない悲鳴を上げさせた凶器である蒟蒻を大和につき返す。口で味わう感触は好きなのに、これが肌に触れると途端に危険物と化すのはどうしてだろう。そんなどうでもいいことを考える。「俺は寝直す」。
そう言うと、相変わらずあまり表情を動かさないまま、大和がこちらをにらみつけた。顔のパーツの取り合わせのせいか、大和は表情の変化が見え難い。感情まで乏しいわけじゃないし、よく見ていると微妙な差異はあるのだけれど、慣れるまではいつも機嫌が悪いように見える損な顔立ちだ。
「眠くないんだろ」
「眠い」
「嘘つき」
「俺が眠いかどうかなんて、お前にわかるわけないじゃん」
眠いかどうかは、完全に主観だ。脳波でも計測すればわかるのかもしれないけれど、眠いのだと言い張ればそれを覆す方法はない。けれど。
「兄さん眠いと舌回らなくなるって、自分で気づいてない? 眠くなると機嫌悪くなるし、目ぇ据わるし」
「え」
虚を突かれて、一瞬飛鳥の思考は止まった。
「自分では、見えてないだろ」
もし、大和の言っていることが本当のことなら、今の自分のぽかんとした表情が眠くないことの証明になってしまっているのだろう。目が据わっているというのがどういう状態なのかがわからないから再現もできない。眠気が出ると集中力が切れ、不機嫌になりやすいことは自覚があったけれど、残りの二つはまったく心当たりがない。本当にそうなのかを確かめることも、その時にビデオでも撮ってもらわない限り無理だ。
「目を据わってる振りをしようとしてるのはわかるよ。物凄く面白い顔になってるから写メ撮っていい?」
「撮ってどうするんだよ……」
なんだか肩の力が抜けて、取り繕うのをやめた。今朝の強硬手段といい対飛鳥用最終兵器として蒟蒻をセレクトしたことといい、弟の言動や行動はどうにも読みきれないが、目的を果たすために一番有効な手段を迷わずに選択するあたりで戦略的頭脳のレベルはかなり高いのだろう。
「面白すぎるから待受にする」
「なあ大和ちょっと冷静に考えようよ兄貴の変顔待受にしてる弟とか人様が見たら絶対にキモいから、ねっ!?」
そういうことを表情をほとんど動かさずに、いや、良く見るとやたらと楽しそうに笑いながら言うあたりで、弟は相当変なのだろうと飛鳥は思う。世間様から見ればよくできた優秀な息子さん、のはずだし実際素行は極めて良いし、勉強も運動も飛鳥よりずっと出来る。飛鳥が大和に勝てるのは英語ぐらいだ。けれど、時々常識の範囲すれすれの行動や言動が多い気はする。
「こんな面白い顔してまで嘘つこうとする方が悪い」
いつの間にシャッターを押していたのか、自分で見ても確かに相当面白い顔が携帯の画面に映っている。今時の携帯は随分と画質も良くなっていて出たての頃のデジカメよりもずっと綺麗だ。こんなのを待受にされてはたまらない。しっかりしている弟に限って心配はないだろうが、万一携帯を落とすかなにかしてこの写真を見られたら、自分で穴を掘ってでも入りたくなることは間違いない。
「……わかったよ。ごめん。起きるよ。その代わりそのデータは消してくれ」
「嫌だ、消さない」
大和がその硬質な印象を与える顔で、にやりと笑った。「でも起きろよ」。
「…………わかったよ」
嘘をついていることは見破られてしまったのだ。もう取り繕うものも何もなく、両手を挙げることで降参の意を示した。これ以上無駄に足掻くと門外不出の危険な写メが更に増えていく予感がした。
「で、何の用だよ?」
だいたいは予想がつくけれど。まさか明日の朝食のリクエストではあるまいし、6時にタイマーでご飯が炊ければあとは火にちょっとかければ食べられる状態にしてあった。
「まだ、予知は変わらないか?」
言われた瞬間、ぞわりと寒気がした。足が震えているが、腰から下は布団を被っているので見られてはいないはずだ。小さく息を吐いた。
「変わらない。いまいち制御が利かないとこも含めて同じだよ」
「そう……」
こんな不自然な態度でいたのだからその答えにはたどり着いていたのだろうけれど、それでも、その目にははっきりと落胆の色が浮かんだ。
(やっぱり知らないままでいさせてやりたかったな)
そう思うのとどちらが早いか、大和は直ぐに表情を戻して聞いてきた。
「まさか、諦めてないよな」
一瞬、頷くことができなかった。諦めているつもりはなかったけれど。
正直どちらなのかわからなくなっていた。
死にたくない。生きられるものなら生き続けたい。人間はいつか死ぬ。それはわかっているし、割と早死にの家系とこの力と志望する職業柄、日本の平均的な21歳よりは死に接した機会はかなり多いほうだろう。亡き母のほかに子どもがいなかった祖母の最期を看取り、入院中だった祖父に代わって葬式を取り仕切ったのも飛鳥だ。大学1年の夏休みには緩和ケア病棟、所謂ホスピスででボランティアをした経験もある。それでも、一度あの予知を知ってしまったら、恐ろしくて仕方がなくなった。やり残したこともやりたいことも、まだたくさんある。死にたくなんてない。
だけど。未来を変えるために状況を予測し、条件を変え続けても、何も変わらない。ひとつ試すごとに、希望が消えていく。どんどん気力が奪われていくような、そんな感覚。思いつくことをすべて試しても未来が変わらない。
正直に言って、限界に近かった。
黙り込んでしまった飛鳥を、大和は信じられないものを見るような目で見た。また自己嫌悪がふつふつと湧き出すけれど、どうしようもない。嘘も芝居もでまかせも通用しないのだ。飛鳥は腹を括った。
「嘘だろ」
「………………わからない」
表情を繕うこともせず、正直に答えた。そうとしか言いようがなかった。
「もう死んでもいいなんて思ってるわけ? 兄さんが?」
はっきりと首を横に振った。
「生きたいよ」
その言葉に嘘もごまかしもない。死にたくないのは間違いない。だけど、抗う気力も残っていない。
「だったら、どうして」
問いかけの答えを口にしようとして、迷った。要するにそれは、諦めたことになるのではないかと思って。積極的な諦めではないけれど、動かない、ということは諦めたことと同義ではないか。
「……どうしてだよ」
作品名:Another Tommorow 作家名:なつきすい