カトレアクラブ
2
恵理香が生まれ育ったのは、大自然に囲まれた小さな村だった。
大きな山の中には亀裂が走ったような谷があり、そこに五件ほどの民家があった。住人はわずか十人前後ほどだった。恵理香はそこで産まれた。
その村は、日本が戦争に負けてから何十年経った今でも、そこだけ時間が止まってしまったかのように廃れていた。
かろうじて電気・ガス・水道等、最低限の生活は保護されていたが、どの家も横風が筒抜けな古い木造建築の家に住み、皆、金に困っていた。
森園家には恵理香と母の二人しかいなかった。父は恵理香が産まれた頃に事故か何かで他界してしまったらしい。姉妹の類もいなかった。父の顔を恵理香は知らない。
母は幼い頃は育児と家事に集中していたが、大きくなるにつれ家にいる時間は減っていき、十歳になる頃には家にいるのにも関わらず顔も見なくなった。もちろんそうなったのは仕事が忙しくなっていったからで、懸命に働いていた母を尊敬する反面、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
恵理香は小学校へは行かなかった。登校拒否をしていたわけではなく、森園家に「小学校へ行く」という概念が存在しなかったのだ。実際、恵理香自身は学校という言葉は知っていたが、それは塾のように行きたい人だけが自主的に行くものだと、中学に入学にするまでは思い続けていた。
恵理香は、学校に行く必要はないのよ――。
小学校に行かなかった理由は、母がそう言ったからだった。家から学校までの距離は二キロくらいで、自転車を使えば充分通える距離だ。それに恵理香は何も障害を持っていないし、なろうと思えばすぐにでも小学生の一員になれたのだ。
しかし、母は小学校へ通わせなかった。代わりに、教科書やドリルを買ってきて、それを家で勉強させた。とは言っても、家の中にはテレビもなければラジオもない。テープレコーダーや恵理香が読めそうな小説や絵本もなかったので、逆にやることがたくさん増えたことに恵理香は喜び、自ら進んで勉強を行った。小学校六年生になっているであろう年齢の時には、既に中学校で習うべき範囲まで学習してしまっていた。
母が小学校に行かせなかったのは、小学校に行かせたくないのではなく、村の外へ出したくなかったからのようである。
恵理香は、幼い頃から村の外に出ることを禁止されていた。
「えりちゃん。いい? 村の外には絶対に出てはいけないの。大きな旗が立ててあるでしょう? あそこまでが村の中なの。お母さんは大人だから出ても大丈夫だけど、えりちゃんはまだ六つでしょう?」
「なんでこどもは出てっちゃダメなの?」
「――村の外に出ると、天狗に攫われちゃうのよ」
その時は、そんなこと全く信じなかった。天狗はお化け。お化けはいない。だから天狗もいない。母さんは適当に嘘をついているんだと、すぐに判断できた。
それでも、母は「村の外には天狗がいる」「天狗に攫われる」としつこく忠告した。信じはしなかったが、そこまで言われたら、もし村の外へ出た時どれだけ怒られるか、そちらの方が恐ろしかったので、恵理香は村の敷地だけで遊ぶようにした。
とはいえ、幼い恵理香にとっては家の中にいるよりも、外に出て遊んだ方が断然楽しかった。村には、他にも一人だけ、恵理香より少し年の離れた女の子がいた。名前はたしか、秋奈といった。肌が青白い、見るからに病弱そうな子だった。
「えり、あのセミとってきなさい」
そんな見た目と反して、秋奈は恵理香に命令する、人使いの荒い子だった。
日差しが鬼のように照らす中、村に生えてる大木を、恵理香は短い手足を使って器用によじ登り、小さな腹から大きな轟音を流すセミに手を伸ばした。が、セミはすぐに飛んで逃げてしまい、その様を目で追った所為でバランスを崩し、恵理香はそのまま地面へと落下した。
「だ、大丈夫? えり、しっかりして!」
幸い木の根元には雑草が大量に生い茂っていたので、腰を軽く打っただけで済んだ。
それでも秋奈は必要以上に恵理香のことを心配し、何度も謝った。別れた後の夜も、秋奈と彼女の母とで家に来て、二人で頭を下げながらお詫びにとおまんじゅうを持ってきた。恵理香は家に帰る頃には痛みもとっくのとうに消えていたため、そのことを母に言っていなかった。だから、何故彼女とその母親が謝っているのか理解できないまま、母もとりあえず頭を下げた。結局、二人の母親同士が頭をぺこぺこ下げあう滑稽な状況になってしまった。
その一件から、秋奈は優しくなった。
「えりちゃん、次は川でザリガニ取りにいこっ」
好奇心旺盛な性格は相変わらずだったが、呼び方もちゃん付けに変わっていた。
子供の膝の高さぐらいしかない浅い川は、透き通るように透明で、足を踏み入れると冷たかった。汗をたくさんかいた体を冷やすのにはちょうどよかった。
川の中に生物は何もいなかった。
「ねぇ、あきちゃん。ザリガニなんてどこにいるの〜?」
「わかんない。図鑑で見て、探してみたくなっただけ」
恵理香は心底がっかりし、しゃがんで手ですくった水を自分の顔にかけた。火照った頭がすうっと一瞬の内に冷えていった。もう一度手ですくうと、今度はそれを飲んだ。家で飲んでいる水よりも冷たくて、鉄の味がしなかった。
「あきちゃん! 川のお水、すごくおいしいよ!」
秋奈は黙っていた。
「ねぇ、あきちゃん?」
恵理香は振り返って聞いた。秋奈は川に足を入れず、ただ村の外に視線を向けていた。返事はなかった。聞こえていないのだろうか。
「あきちゃんったら!」
「静かにっ」
恵理香が立ち上がって秋奈へ近付こうとしたのを、彼女は左手で制した。
「何か……いる」
秋奈は感情の入ってない声で言った。硬直したように体は動かない。視線も魚の目のように真っ直ぐ固まっている。
「何がいるの――?」
「そこ、そこに――」
秋奈が指さした方向を、恵理香は顔だけ向けて見た。
そこには、人が背中を向けて立っていた。
十メートルほど離れた木々の間に、長い黒髪を後ろで縛り、紺の無地の着物を着て、下駄を履いていた。背は恵理香達と変わらない。子供だろうか。
「あのー、誰ですかー?」
恵理香はその子供に向かって大声で聞いてみた。
子供はびくりと肩をふるわせて、ゆっくりとこちらに向かって振り返った。
しかし、その子供の顔は――。
真っ赤だった。
それを見た途端に二人は悲鳴を上げて村の方へと足をもつれながら逃げた。しかし、逃げている途中で、恵理香は砂利で足を滑らせて転んでしまった。秋奈は逃げるのに精一杯でそれに気付かないまま、村の中へと消えていってしまった。
恵理香はゆっくりと起き上がった。右膝が大きく擦りむいていて、痛みで上手く歩けなかった。
「かみさまにはなれない――」
背後から、甲高い幼い声が聞こえた。
「かみさまは一人だけ――」
恵理香はもちろん、その声の主が誰か分かりきっている。だが、振り返らざるをえなかった。反射という機能は、時に誤動作してしまう時があるのだ。
恵理香はそれでもピントをわざとぼかし、極限まで赤い顔の子供を視界に入れないように誤動作する自分の脳を制御した。