カトレアクラブ
恵理香は右手に持ったタオルで身体を拭きながら、左手の湿った指先で、自分の唇に触れる。
――美咲は今頃、どうしているのだろうか。
ふと、そんな思いが頭を過ぎった。
美咲は無事第一志望の学校に受かり、この聖百合学園を、今年の三月に去っていった。たった二ヶ月前のことである。
二人はお互い別れを悲しんだり泣いたりせず、ただ笑い合っていた。
「また会おうね」
「うん。いつでもいいから、遊びに帰って来てね」
「分かった。約束する。えりちゃんも、東京に遊びに来てね。そしたら一緒に渋谷とか秋葉原に行こうね」
「うん。約束する」
美咲は東京の有名私立高校に進学した。青山にある、名門中の名門高らしかった。
恵理香は、東京という街を未だに知らない。
恵理香にとって、東京という街は未知の世界であり、アメリカやオーストラリア等と変わらない、外国のようなものなのである。
――私がこの学校、いや――このセカイから出ることはあるのだろうか。
――このセカイを超えた向こうには、どんな世界が広がっているのだろうか。
「へ……へっくしょんっ!」
あやめの人を小馬鹿にしたようなくしゃみで、恵理香の心は現実に戻った。
「大丈夫? 風邪でもひいたんじゃない?」
「だ、だいじょ〜ぶだもん。ただ、身体が少し冷えただけだもん」
あやめの鼻声が壁越しにはっきりと聞こえた。くすくすという笑い声が他の個室から聞こえてきた。
恵理香は下着を履き、上半身が映し出された曇った鏡に視線を合わせた。身体の細さは負けていないが、胸の大きさはまだケルパーには及ばない。視線を鏡から外し、ブラジャーを付けた。タグには大きく「B」と書かれていた。
手にとってみてから分かったことだが、パジャマ自体は実際そこまで汗が染みていなかった。大汗をかいたと思っていたのは、寝ぼけていたからか、乾いた汗がべたついていたからなのかもしれなかった。
個室から出て後ろ手で扉を閉め、カードを機械から引き抜いた。
「えりちゃんさ、シャワー浴びるのなら最初から寝癖直す必要なかったんじゃない?」
後ろを振り返ると、濡れた髪を肩に掛けたタオルで拭きながらあやめが木のベンチに座っていた。
「あんな髪型じゃ人前に出られないもん。手間なんて気にしてたら乙女のプライドが台無しだわ!」
「プライドかぁ……。えりちゃんは本当におしゃれだよね。あたしも髪型変えてみようかなぁ」
あやめは自分の真っ黒な髪の毛を手でいじった。あやめは普段三つ編みで左右に結んでいる。そのため普段は気付かないが、ほどくとかなりの長さを持っている。ただ、結構な癖毛だから、小学校の頃からずっと三つ編みにしているのだそうだ。
「でもさ、女の子は恋をすると髪型が変わるってよく言うじゃない? だから、あたしも誰か好きな人が出来たときに髪型変えたほうがいいのかなぁ?」
「……別に髪型なんて、変えたいと思ったときに変えればいいじゃない」
「もう。えりちゃんって見た目はかわいいのに、乙女心がないんだからっ」
乙女心だかなんだか知らないけれど、三つ編み以外の髪型になったあやめなんて想像がつかないなぁ、と恵理香は頭の中で呟いた。
シャワールームから出て、再び二人で廊下を歩く。時刻は八時を迎えたため、制服姿の生徒があちこちに顔を出してきた。このまま朝ご飯を食べに行こうかとも思ったが、食事の場で、隣の椅子に脱いだ下着と濡れたタオルを置くのはいささか品がないので、部屋に戻ることにした。
「ちょっと待って。ジュース買いたいから正面広場に行かない?」
「オッケ。いいよ」
二人はエレベーターへ真っ直ぐ向かっていた進行方向を右に変え、中央広場がある中央棟に移動する。ちなみに二人の部屋がある校舎は西棟だ。
聖白百合学園の高校校舎は、ほとんどの校舎がひとつに繋がっている。圧倒的大きさの中央棟を真ん中に、東西南北に別れた校舎があり、全ての校舎の二階より上は寮の部屋となっている。体育館やプールは中学校舎と共同のため、直接は繋がっていない。
この学校には、基本的に時間に制限というものがない。
授業は例の通り、自分の好きなように時間割を組める(学年の始めに教師との打ち合わせである程度は決められてしまうが)し、食堂はメニューが若干変わるぐらいで、深夜を除けばいつでも食事を取ることが出来る。また、深夜でも冷凍食品の自販機は常に稼働しているため、問題無い。
さらには門限というものがなく、レポートを試験間際にまとめてやりたい短期集中型(短期で学習して出来るような試験ではとてもないが)のような生徒は、一週間や二週間も学園から離れることも可能なのだ。門は二十四時間完備なので、たとえ夜中の二時だろうか、何の注意も受けずに学園の出入りが出来る。
ただ問題なのは、校舎の周りには、森しかないことである。
広大な土地を大胆に中高の校舎で埋め尽くしたこの学園は、山の中――谷間というべきか――に存在していて、車でもなければ麓に行くのには半日以上かかるらしい。もちろんそんな距離を歩いて降りようとする生徒は一人もいない。
そのため、食材などを運ぶトラックと共に、一日に二往復するバスが走っているため、生徒達はそれに乗って実家に帰ったり、街へ出かけたりするのだ。
あやめは夏休みや暇な時はそれを使ってよく山を下りているが、恵理香は中学生の時から一度も降りたことがなかった。
別に降りたいとも思わないし、降りたところで行く場所がどこにもないからだ。校舎の中庭や外に出れば、いくらでも外の空気を吸えるし、学園内には有名チェーン店の薬局とコンビニも入っているため、生活用品等もほとんどそこで足りてしまうのだ。服は制服とパジャマぐらいしか持っていないし、パジャマも母が新しく買ったらすぐに郵送してくれる。
二十坪くらいの広大な空間の広場には、いつも生徒で溢れかえっている。コンビニも広場に隣接しているし、お昼などは広場のテーブルに集まってわいわい騒ぎながら食べる生徒の方が多いのかもしれない。
十メートルぐらいの巨大なロボットを使わなきゃ磨けなさそうな大きなガラスが一辺の壁全体に広がっていて、朝日が広場全体を照らす。
「中央棟の二階の部屋っていいよね。広場にすぐ行けるし、コンビニがあるから閉まるギリギリでも何か買いに行けるじゃない?」
「まぁね。だから三年生優先だし、常に満室なんじゃない? 六人部屋とかなら空いてる時もあるけど――さすがにそんな大人数の中で毎日過ごすのは息が詰まりそう」
確かにね〜、とあやめは言いながら、小銭入れから百円を取り出した。
コンビニの扉の横に五台並んで置かれた自販機の前につき、あやめは左から二番目の白い自販機を選んだ。三十秒ほど迷ったあげく、あやめはコーンスープを選んだ。ついでなので恵理香も一番右の自販機からホットミルクを買った。
「あ! ホットミルク入れたよ、ってさっき言ったじゃない!」
「こ……これは保存用! 冷蔵庫に入れとくの!」
「それじゃコンビニで普通の牛乳買った方が安いじゃない!」
「いいでしょ、あやめのお金じゃないんだから!」
「だからって、無駄遣いは良くないよ!」
「価値観は人それぞれ! 一緒にしないで!」