カトレアクラブ
5
その後、恵理香はほぼ時間割通りに六教科のレポートを終えていった。他の教科はスポーツ基礎と違って、一人で映像を見ながら頭を働かせて解かなければいけないので、視聴覚室の個室に籠もった。あやめは夜にまとめてやると良い、スポーツ基礎のレポートを提出すると、寝室に戻って眠ってしまったようだ。あんな状況では授業に集中出来るわけないし、朝から大泣きして疲れたからなのだろう。
そんなだから恵理香は一人で行動した。お昼も一人で食堂で食べた。尚子と望の姿は見当たらなかった。仲の良い友達もいたが、複数でいて知らない子が二三人含まれていたので、気まずいと思い一人掛けの窓際の席に座った。
食べ終わって食器とトレーを片付けに立ちあがったときに、時間を確認するために時計を見るついでに、あやめが今朝説明してくれた「キリストの顔」を眺めた。
遠く離れた位置から見れば、輪郭等で人の顔だと言うことがわかるが、近くで見ると何色もの色が無造作に混ざり合っていて、まるで洗わないまま使い続けたパレットの上のようだった。
――キリストの顔を描きたいのなら、こんなにたくさんの色を散りばめなくてもいいんじゃないの?
恵理香は首を傾げながら食堂を出て行った。
六限目を終えた時刻は、ちょうど四時を迎えた頃だった。
まだ時間はあるが、だからと言ってあともう一教科をやろうという気にはなれなかった。この時間になると部活を始める生徒が多くなるし、なんとなく気を晴らしたかった。あやめの話が恵理香自身にも結構響いたようだった。
恵理香は西棟にある音楽室へ向かった。西棟には芸術系の教室が多いため、芸術系の部活に入っている生徒はここに住むことが多い。恵理香はどの部活にも所属していなかった。
建物や噴水の周辺に吹奏楽部の練習をしている生徒がいる。トランペットの金色が太陽光を反射して恵理香の栗色の髪を一層輝かした。
西棟に入り、恵理香は一階にある音楽室に入った。防音の部屋にグランドピアノが置かれたその部屋は、恵理香にとって最も落ち着く癒しの空間だった。
雨が降ると吹奏楽部に占拠されてしまうが、ちょうど今日は朝から快晴だったので、フルオーケストラの演奏が無理なく出来るくらい広い部屋には、恵理香一人だけに用意されたステージの様だった。
グランドピアノの蓋を開き、背もたれのない椅子に腰を下ろした。高さは少しだけ高かったが、ただ弾くだけなら問題のない高さだった。
腕を鍵盤にやさしく乗せ、恵理香はドミソの和音を鳴らした。調律は僅かにずれ、どこか二つの倍音が震えてきこえた。
恵理香がピアノを始めたのは中学校一年になった頃からだ。幼い頃からヤマハの教室に通っていた美咲に手取り足取り教わり、現在はやっとバッハのインヴェンションが何曲か弾けるようになった。美咲は「普通の人より物覚えが早い」と再三褒めていた。当の恵理香は物覚えの早さ等どうでもよかった。
「ピアノを弾くときは、『鍵盤を押す』と思っちゃダメ。『鍵盤と指を繋いでピアノと一体になる』と思いながら弾くのよ」
最初のレッスンで美咲はそう言った。素人の恵理香にはいきなり最初からそんな抽象的な教え方では何が何だかさっぱり分からなかった。
――それでも、最近は少しずつあやめの言いたいことが分かってきたかも。
恵理香は目をつむって顔を上げて天井に向け、息を大きく吸ってから再び鍵盤に指を置いた。
薄汚れたピアノのカバーの下から、インヴェションの一番が響き始めた。
恵理香は暗い曲が嫌いだった。明るい長調で、弾いている方も聴いている方も気分が晴れやかになるような曲が好きだった。中でもバッハの長調の曲を聴くと、体の中の悪質な物体が全部消えてなくなってしまいそうなくらい清々しい気持ちになれた。
一番を弾き終えると恵理香は壁際にある本棚から楽譜を取り出し、五番の譜読みを始めた。カビ臭いヘンレ版の楽譜にはあちこちのページに指示が書いてあったり、音符が赤丸で囲まれていた。きっと誰かがレッスンで使っていた楽譜を学校が引き取ったのだろう。そこに書かれた荒っぽい字が、恵理香にとっては先生だった。
指番号を細かく確認しながら片手ずつ弾き、一つ一つゆっくりと両手で合わせ、最後の和音が部屋から消えた頃には、時刻は七時十分前だった。
夕闇と陰に囲まれた部屋から出て、恵理香は食堂に向かった。携帯電話であやめを呼ぼうとしたが、携帯は朝起きた時から寝室の出窓に置いたままだった。
食堂に着くと、運良く望と扉の前で会った。メイクをばっちり決めた望は着替えと化粧落とし等が入った鞄を肩に提げていた。隣に尚子の姿はなかった。
「あらぁ〜。恵理香じゃなぁい。夕飯は一人で食べるのねぇ〜」
「ううん、携帯を忘れただけ。そういう望こそ尚子は一緒じゃないの?」
「いいえ〜。先に来てるわぁ。あの子、席取るのが得意なのよぉ」
席取りに得意不得意があるということを初めて知った恵理香は、望と共に中に入って夕飯を選んだ。周りを見渡すとテーブルはほとんど埋まっていた。
「ねぇ、望と尚子って本当に同じ部屋じゃないの?」
恵理香は躊躇することなくそのことについて聞いてみた。望は顔を向けずにすぐに答えた。
「そうよぉ。あたしは別に一緒でもいいんだけど、どうしてもあの子は別な部屋がいいらしくてねぇ」
「……てことは、望がわざと別な子と一緒の部屋にしているんじゃなくて、尚子が個室を選んでるってことなんだ」
「たぶんね。あたしは高校からこっちだからよく知らないけど――尚子も中学は公立でしょう? たしかあの子はあたしと仲良くなる前――入学当初から個室で暮らしているはずだわぁ」
「えりちゃーん! どうして起こしてくれないのぉ!」
背後からドタドタと騒がしい足音がしてきたので振り返ると、あやめが乱れた髪を揺らしながら恵理香の元へ走ってきた。
「ごめん、部屋に携帯置いてったままだったから……」
「なら部屋まで起こしにきてくれればよかったのに。――まぁ、いいわ。お昼も食べてないからお腹ぺこぺこなの」
あやめがトレーを手に取った頃には、恵理香と望は既に夕飯を選び終わっていた。「先にテーブルに行ってるね」と言うと、あやめは大慌てでパスタを皿に乗せ始めた。
「おっす。恵理香、またスパゲッティ〜? 麺類ばっか食べてると太るよぉ」
「カツ丼を毎晩食べてる人に言われたくないわ」
「あたしは鍛えてるから平気なの。たくさん食べても燃焼すれば関係ない!」
尚子はいつもと変わらず少し男勝りな調子だ。そんな彼女がどうして個室を選ぶ必要があるのだろうか。集団生活が苦手ならば、こうして集まって食事をすることも避けるはずだ。
「……ん? どうした、恵理香。あたしの顔に何かついてるのか?」
つい、心を覗くようにじっと尚子の顔を見つめてしまっていた。
「口元にご飯粒がついてるのよぉ」
「え、まじかよ。……あれ? ついてなくない?」
「あらぁ? あたしの勘違いだったみたい。尚子、いつも食べ方が荒っぽいから」
まぁね、と言って尚子はニッと歯を見せながら笑った。愛想笑いをする望は、クスクス笑いながら隣に座っている恵理香へウィンクを送った。ナイスフォローだと恵理香は望に感謝した。