カトレアクラブ
「今みたいな話は嫌いとか別に思ってないし、喧嘩の原因は美咲とのことじゃなかった?」
恵理香は携帯の待ち受け画面を見ながら聞いた。
「え? そうなの? えりちゃんって、恋愛話苦手なのかと思ってた」
「苦手も何も――私、恋愛とかしたことないし……そもそもどういうものだとか知らないし」
小学校に通ったこともなく、中学校から全寮制の女子校に在学している恵理香には、恋をするという概念がなかった。友達の恋愛話を聞いたり、テレビのドラマや小説で恋愛系の話を目にすることはあるが、恵理香にとってそういうものは全くと言っていいほど現実感がなく、ファンタジーと変わらない。
産まれた村が小規模で、村人全員が家族同然のようなものだったからかもしれない。父親のいないシングルマザーの家がほとんどだったし、恵理香ぐらいの年齢の子供は秋奈ぐらいしかいなかった。
「……美咲ちゃんのことは、好きじゃなかったの?」
「美咲はもう過去の人だから……。一生会うこともないだろうし、会ったところで特別変わることはないと思う。お互い中学校の時と同じように接するんじゃないかな」
「じゃあ、もし再会して、美咲ちゃんから告白してきたら?」
「それこそありえないわ。美咲はそんなこと言う子じゃないもん。それに今は東京の学校で男の子と付き合ってるかもしれないし……」
携帯電話の画面を閉じ、レポート用紙に視線を落とした。
「やっぱり、まだ好きなんだ……」
あたしの思ってた通りだった、とも言っているような切ない声であやめは言った。すぐに否定しようと思ったが、否定できるような言い訳が思いつかなかったし、自分でも分からなかったが、本当に美咲のことが好きなのかもしれないという不安と迷いが入り交じり、恵理香は返す言葉がなかった。
「あたしが好きになった人はね、男の子なの」
恵理香が何も言えないと判断したのか、あやめは声のトーンを変えずに急に言い出した。
「いいんじゃない? 私は慣れてないから男の子は苦手だけど……女の子が男の子を好きになることは普通なことだし、それであやめを嫌いになったり部屋を変えたりするなんてこと、少なくとも私はしないわ」
「ありがとう、えりちゃん……。でもね――正直言って、怖いんだ」
せっかく良い返事が出来たと思ったのに、あやめの口調は変わらず落ち込んだままだった。
「その人はね、背が高くて体格もしっかりしてるんだけど、綺麗な顔をしてて、すごく優しいの。思いやりもあるし、あたしに何かあると心配してくれる。かっこいいし、良い人過ぎるから、他の子からあたしより先に告白されちゃうんじゃないかって不安になるくらい」
「そういうことね。でも」
「ううん。怖いのはそこじゃないの」
恵理香の言葉を遮り、あやめは話を続ける。声が僅かに震えていた。
「もし、もしだよ? 付き合えたとして、ある程度続いたら……いずれは彼と体を重ねることになるんでしょう? それが……怖いの」
「うーん……私も経験がないから分からないけど、経験がないから怖いと思うけど、何度か繰り返せば慣れてくるものなんじゃないかな……?」
恵理香はあやめの不安を取り払ってあげようとは思いつつも、自分自身の手も血が止まったように冷たくなり、小刻みに震えていた。
「でもどんなに優しい人でも、女の子の裸を見ると変わっちゃうんじゃないかな……。野獣みたいに押し倒されたりとか、乱暴にされたりとか……そういうことを考えていくと、本当にあたしは彼のことが好きなのかな? って分からなくなっちゃうの」
あやめは両手で自分の震える体を抱きしめながら俯いた。レポートは最後の問題まできちんと解かれていた。
恵理香は、性行為がどういうものなのかということは必要最低限の程度なら知っていたが、実際に経験したことはないし、もちろん見たこともなかった。仲のいい友達は漫画や携帯のサイトで興味本位で見たことがあると言っていたが、恵理香は興味もなかったし、そもそもそんな行為を子供を産まずにする意味が、はたしてどんな意味を持っているのか不思議でしょうがなかった。
両親の性行為によって自分がこの世に産まれたという事実に、実感が沸かないし、気持ちが悪かった。
なんと言ってあげればいいのか。そもそも男性という存在がどんなものなのかほとんど分からない恵理香にとって、あやめのこの悩みをすっきり解決することは不可能に等しかった。
答えの出ない問題に必死に頭を回転させていた恵理香のお腹のあたりに、あやめが倒れるように両手を回して抱き付いてきた。
「なんで……なんで、好きになんてなっちゃったんだろう」
鼻をすすりながら大泣きするあやめは、ひどく辛そうだった。人を好きになると、こんなに苦しい思いをしなければならないのだろうか。
「大丈夫だよ。……その人の名前はなんて言うの?」
「……タカシくん」
「私は会ったことないし、無責任と思うかもしれないけれど――きっとタカシくんは乱暴したり襲ったりなんてひどいことしないよ。もしそんなことされたら、あたしがぶん殴ってあげるから!」
あやめにしたときみたいに、と言おうとしたが、下手な冗談を言って彼女を怒らせたくなかったのでやめておいた。
二人の会話はそのまま停止した。あやめは泣き止んだが恵理香の体から離れなかった。恵理香はそのあやめの頭を母が娘を落ち着かせる時のように撫でた。三つ編みが太ももに掛かっていて、黒い頭髪が天井の蛍光灯を跳ね返していた。
モニターに映されている授業の映像は間もなく終わりを迎えようとしていた。
「……えりちゃん」
「なぁに?」
あやめは体から離れ、泣いた所為で腫れた瞼を恥ずかしそうに擦りながら、自分の体を起こした。
「恋愛とかそういうの関係なしで、あたしはえりちゃんのことが好き。だから――今度は三年間、ずっと同じ部屋でいようね」
そう言い終わると、あやめは右目から一粒の涙を流した。頬を伝った後が真っ直ぐ残った。
恵理香は黙って納得したように大きく頷いた。
『これで授業は終わりです。ディスクを取り出し、すぐに視聴覚室、もしくは自販機の返却口へ返してください。まとめて返却しますと、他の生徒の迷惑になります』
女性のしっかりとした声がモニターから流れ、映像は青いメニュー画面に切り替わった。恵理香は立ちあがって取り出しボタンを押し、ディスクをケースに仕舞った。
「……ごめんね。今日は調子があまりよくないみたい」
「そういう日もある。絶品ソフトクリームが食べられただけでも良い日だよ」
そうだね、とあやめは頑張って笑顔を作った。