カトレアクラブ
少し曇った白い壁に青色の床という、病院のような色合いの廊下を進む。恵理香と同じようにパジャマ姿の生徒が大きなあくびをしながらよろよろとすれ違った。廊下に光のカーテンを作り出す窓は、一定の間隔で開けられており、木々の揺れる音と野鳥の鳴き声が風と共に耳に入ってくる。窓から見える景色は空の青と、木の緑の二色しか存在しない。
廊下を進み、「601」の部屋を過ぎたところにエレベーターがある。ボタンの隣には張り紙が貼ってあり、「24時〜04時は停止します。その間はボタンが消灯します」と書かれている。しかし恵理香はこのボタンの明かりが消えているのを未だに見たことがない。
下向きの矢印のボタンを押すが、エレベーターはちょうど六階を過ぎ、五階から下へと向かっていた。何とも今日は運の悪い日だ。廊下をそのまま真っ直ぐ進んだ先には階段もあるが、もうこれ以上汗をかきたくはないので、恵理香はそのままエレベーターの扉の前でじっと待つことにした。
「ちょっとちょっと。人の話は無視するし、勝手にあたしを置いて行くなんて……ひどいよぉ」
か細い声が後ろから聞こえてきたので、渋々振り返ると、あやめがタオルと着替えを脇腹に抱えて、恵理香の後ろに立っていた。あわてて走ってきたのだろう。息が少し荒い。
「シャワーでしょ? あたしも行こうと思ってたの。行くのなら一言でも言ってくれればいいのに」
あやめは何故か、いつも恵理香の後をついてくる。同じ部屋だからなのかもしれないが、シャワーやお風呂の他にも、食堂や図書館へも恵理香と一緒に行きたがる。高校生だったら友達付き合いのごく一般的な行動なのかもしれないが、恵理香は自分の行きたいと思った場所にしか行かないし、そんな金魚のふんのような行動はしたくないとも思った。
「はい、これ忘れ物。持ってきてあげたんだから、これで少しはあたしに対してだけでも機嫌を良くしてくださいねっ」
あやめは恵理香の肩に、片手に収まるサイズのボトルを軽くぶつけた。それは洗顔ソープだった。
シャワールームには、シャンプー等の洗剤はきちんと完備されているので、本来なら忘れても問題はない。だが、備え付けの洗顔用の石けんだけは恵理香の肌に合わないので、自分専用の洗顔ソープを毎回持っていっているのだ。それをちゃんと覚えていたことと、恵理香の機嫌が悪いことをすぐに察知できたあやめは、さすが同じ部屋の住人なだけはあると思った。
「……ありがと。別に何かに怒ってるわけじゃなくて、寝てる時に汗をかいちゃったから早く洗い流したいだけなの」
「そ、そうなんだ。てっきり怒ってるのかと思った……」
「怒られるような節があるの?」
あやめは三秒ほど思考停止したかと思うと、眼を斜め上にそらした。口元がうっすら笑みを浮かべている。
「あ! エレベーター来たから早く乗ろっ! ほらほら」
あやめは両腕で恵理香の肩を掴み、そのままぐいぐい押してエレベーターの中へ入っていった。
一階のボタンを押すとすぐに扉は閉まり、あやめはエレベーターガールのようにボタンの前を陣取った。恵理香はその対角の壁に寄りかかった。
「そ、そういえば、もうすぐカトレアクラブの新入部員の発表があるんだっけ! 誰になるんだろ〜。楽しみだなぁ〜」
あやめは頭に浮かんだことをとりあえず口に出して、なんとかごまかそうとしているようだ。誰が見ても分かるようなその行動にだまされるのは負けのような気もしたが、ここで問い詰めたところで彼女は口を開かないだろう。部屋に帰ってきた時にでも聞けばいい。恵理香はそのまま彼女の話を返した。
「カトレアクラブの部員って、入りたい人が入るだけじゃないの?」
「もう、エリちゃんったら。そんなことも知らないの?」
あやめはセミロングの黒髪を揺らしながら振り返った。
「カトレアクラブはね、清楚で綺麗ですっごく頭のいい人しか入れない、特別な部活動なの。どれか一つでも欠けてたら、床に頭を擦りつけるくらいお願いしても入れないの。そんな中から選び抜かれる生徒は、学年で一人、多くて二人らしいよ」
「なによそれ。たかが部活なのに、どうしてそこまで選抜が厳しいの?」
エレベーターが一階に止まり、扉が左右に開く。エレベーターを降り、並んで廊下を歩きながらあやめは話を続けた。
「入学式で、ケルパーっていう名前の人が生徒代表挨拶をしてたでしょ? 覚えてない?」
恵理香は思い出す。入学式の日――。
「生徒一同から祝辞。 生徒代表――カトレアクラブ部長、ケルパー」
「はい」
同じ話を延々と交代しながら繰り返す、居眠りタイムとでも呼べる来賓の挨拶がやっと終わり、崩れた姿勢を正していた恵理香の耳に、違和感のある名前が聞こえた。
――ケルパー? それはどう聞いても偽名――というよりあだ名である。
式典という場で、本名ではなくニックネームで呼ばれる生徒など、どんな人物なのだろうか、恵理香は至極気になった。
首を伸ばし、ステージへの階段を上る生徒の姿を視界に入れる。
壇上に現れたのは、背が高く、腰まで届きそうなストレートの黒髪の生徒だった。大手企業の社長が掛けていそうな銀縁の眼鏡を掛けている。澄んだ瞳には、今この会場に存在する全ての光を跳ね返す銀色の眼鏡がひどく似合っていた。
悔しいが――ケルパーと呼ばれた黒髪の生徒は、抜け目がないくらいに美しかった。
恵理香は自分以外の女性を滅多に褒めない。高校生にもなると、年頃の所為か、見様見真似で化粧をする女子が増えるが、そのほとんどが素顔を台無しにしている。真っ黒なアイシャドウを無闇に瞼全体を覆ってしまうくらい塗ったり、病人のように真っ青になるぐらいファンデーションを施したり、マスカラをたっぷり塗って、伸びすぎた爪のように長くひん曲がった睫毛にしたり、と。
化粧はすればいいってものではない。有名なモデルやアイドルの化粧を真似たところで、人間は一人として同じ顔をもっていないのだし、そもそも同じ化粧をしてアイドルのようになれるのなら、若ければ誰だってアイドルになれるだろう。
一人一人顔が違うのだから、化粧の仕方も十人十色なのだ。
そういう恵理香本人も、自分の顔には自信があるが、まだ化粧については勉強不足だ。だから、せめて二十歳を迎える前には、自分に合った化粧の仕方を学んでおきたいと考えている。
一方、ケルパーという女生徒は、化粧をする必要がないぐらいに肌が白く、顔が整っている。
眉目秀麗――。そんな言葉がぴったり当てはまるような女性だ。
顔に限ったことではない。百六十センチ程の身長をもつ校長先生の頭が、彼女の肩と並ぶぐらいの身長をもっている。ただ縦に伸ばしただけのような体ではなく、胸も大きく、腰はコルクを巻いているかのように引き締まり、身長の半分を占めているんじゃないかと思うくらい長い二本の素足が、スカートから床に向かって伸びている。裾から見える素足には、余分な脂肪など一切ついてない。ハイヒールが似合いそうなしなやかさだった。そんな高校生とは思えないスタイルに、未だに中学生体型の恵理香では、比較対象にもならなかった。