カトレアクラブ
第1章
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目覚めの悪い朝だった。
びっしゃりという表現がぴったりなくらいの大汗がパジャマに染みこみ、布団から起き上がった瞬間、背中に冷気が伝わった。皮膚が濡れたパジャマに張り付き、早朝から不快な気分になった。
身も心も凍えるような寒さを耐え抜いて、やっと訪れた春の息吹をろくに感じることができなかったまま、季節は夏の予告のような梅雨が始まる六月に入った。
うだるような暑さ。川の水が余すところなく蒸発したんじゃないかと疑うような湿気。扇風機にしがみついても、ブラジャーを外しても毛穴の一つ一つから溢れる汗。日本の夏は、気温が四十度を超えるような地帯で産まれ育った東洋人ですら耐えられないという。ならば、この世で体感温度が最も高い国は日本なのではないだろうか――。
そんなことを考えているだけでも、気持ちだけが夏の猛暑へと足を踏み込んでしまいそうだったので、恵理香は首を横にぶんぶんと振って頭の中を空っぽにした。
掛け布団を脇に避けて身体を起こし、枕元に刺さったカードキーを乱暴に抜き取った。カードが刺さっていた機械のランプが青色から緑色に変化した。
毛玉のついた、元は赤だったが一度洗っただけで桃色に色落ちしてしまったスリッパに足を通し、肩に重りを付けているかのようにゆっくりと立ち上がった。少し立ちくらみがしたが、視界が一瞬だけ黒く滲むだけで済んだ。
白いスライド式の扉は、持ち手のすぐ上にたばこの箱ぐらいの寸法で薄い水色の枠が描かれていて、そこにカードキーを軽く当てると、扉はほとんど音を立てずに左へ流れるように移動する。
学寮であるこの部屋は、十一畳ほどの部屋を六畳のリビングルームと二つの二乗半の寝室に分かれている。寝室は互いの扉が向かい合うように、リビングルームの左右に配置されていて、この学寮では最も部屋数が多い、二人の生徒が暮らせるタイプの間取りである。寝室と繋がっているリビングルームにはキッチンやトイレも完備されており、寝室の扉を開けてすぐの真四角の空間には、テレビとテーブルが置いてある。同じ部屋で暮らす新原あやめが、既に正座でテレビを見ながらマグカップに注いだ紅茶を飲んでいた。
「あ、えりちゃん。おはよう。……今日も相変わらず寝癖がひどいね」
あやめは目が合った途端にそう言うと、マグカップをテーブルに置き、正座を崩した。
えりちゃんこと森園恵理香は、癖毛というわけではないし、お風呂から上がった後も毛先までしっかりとドライヤーで乾かすのに、起床して次の日を迎えた時には、髪型がパーマをかけたようにあちこちにくるくると曲がってしまうのだ。
爆発した髪に寝ぼけ眼、汗で湿ったテディベアの絵柄が無数に描かれたピンクのパジャマ。――こんなだらしのない姿、あやめぐらいにしか見せられない。
どんなに清潔だったり、端正な人でも、寝起き姿まで美しいままでいられる人など存在しないはずだ。毎朝自分にそう言い聞かせて励ませているが、それでも出来ることならば、起きた直後でも人前に出られるくらい常に美しくありたい、と恵理香は思い悩む。
「紅茶……飲む? あ、えりちゃんはハーブ嫌いなんだっけ」
あやめの質問に答えるどころか質問自体をロクに聞きもせずに、恵理香は洗面所へ直行した。
トイレの脇にある洗面台で、鏡で自分の顔を確認しないまま蛇口を捻り、勢いよく流れ出た水を顔面にぶつけるように浴びせた。冷水のおかげで目はすっかり覚めたが、気分は優れないままだった。
栗色の髪をくしでとかし、普段通りのミディアムボブのふんわりとした髪型に直す。恵理香の髪は寝癖がつきやすいが、水で少し濡らしてくしを軽く通せば、あっという間に普段のかわいらしい髪型に戻るのだ。
くしを棚へ戻し、恵理香は鏡で自分の顔をじっくりと確認した。
染める必要のない栗色の髪の毛。薄いが整っている眉。丸くて大きな瞳と自然に上向きにカールした長い睫毛。外国人には負けるが、日本人の中では絶対に高い方だと言える鼻。盛り上がりすぎず、薄すぎないサーモンピンク色の唇。
美しい――。
自分の顔に惚れてしまうぐらい、恵理香は自分の顔が好きだ。顔だけではない。身体や声など、自分の体にまつわること全てが、好きという言葉で覆われているのだ。
決して自惚れているわけではなく、ナルシストというわけでもない。よく勘違いされるが、美しいと思うものを美しいと感じることは当たり前なのだ。それが例え自分自身だとしても、素直に美しいと思うべきである。
「それがナルシストなんだってば」と言う人がいるのなら、それは単なる嫉妬でしかない。大抵の人は自分を美しいと思えない、自分を好きになれない――そんな人ばかりだろう。
確かにナルシストと勘違いされてもおかしくはないと、恵理香自身も高校生になった今は少しずつ考えるようになった。だけど、ひらきなおった考え方だが、ナルシストという言葉に悪い意味は含まれていないと思う。「自分の容姿を評価するのは自分以外の皆さん」という考え方が世間に広がっている所為で、イヤミの言葉として使われてしまうのだ。
評価なんて、理屈もなければ絶対性もない。それが他人からのものであればなおさらだ。印象が大きく影響するこの期において、そんなものは無意味に等しい。
評価を下すのと、その評価に満足するかどうかは、自分自身だけでいいのだ。
だから、決して自分は間違っていない。ナルシストというより、自分に素直なだけなのだ――と、恵理香は考える。
これで顔だけなら全校生徒に見せられる。しかし顔が良くても、汗で汚れた身体が嫌でしょうがなかった。
用を足し、リビングルームに戻る。テーブルにはあやめのマグカップが彼女の前に置いてある他に、ゆらゆらと湯気を上げたマグカップが隣にもうひとつ並んでいた。
「そしていつもの通り、寝癖直しはアイドルの早着替えのように早い――。ホットミルク、入れといてあげたよ」
あやめに罪はないし、単なる八つ当たりになってしまうのだが、思わず「なんで温めるんだよ!」と怒鳴りそうになった。確かに私はホットミルクが好きで、季節に関係なく朝に飲むことが多い。しかし、今日のような汗だくのパジャマに包まれて、いっそのこと頭から水をかぶった方がマシだ――というような状況でそんなものを出されては、嫌がらせとしか思えなかった。
さすがに怒鳴りはしなかったが、さっきと同じように無視をして再び自分の寝室に戻り、白いクローゼットの下の引き出しから、着替えとタオルを持ってスリッパから上履きに履き替え、部屋を出た。
寝室と同じスライド式の扉がぴしゃりと閉まった。「605」と書かれたプレートが姿を現した。扉の横にはカードキーを通す機械があり、そのすぐ上に液晶の画面が設置されている。その画面には、【モリゾノ エリカ】と【ニイハラ アヤメ】と、オレンジ色のドットで書かれていた。