カトレアクラブ
「まったく、いきなり泣いたと思ったら何か買ってあげるって言った途端に上機嫌かよ。最初っから、それが狙いだったんじゃないの?」
「尚子、どっちにしてもからかった私達が悪いのよぉ」
食事を終え、四人はそのまま「絶品ソフトクリーム」を買いに行くために、コンビニに向かった。
一番背の小さい尚子はスカートを下着が見えそうなくらい大股で前を歩いていく。一番背の高い尚子は、平均台の上を歩いているように、足先を揃えながら進む。奢ってもらえる二人――あやめは奢る側でもあるのだが――は、その後ろに並んで普通に廊下を歩いていた。
恵理香は普段はあやめとこの二人と行動を共にすることが多い。大抵今日のように朝の食堂で集合するのが主流となっている。
「絶品だか上品だか知らないけどさ、アイス一つに五百円もかけるなら、チロルチョコを二十個ぐらいまとめて買ったほうが安いし満足出来るよっ」
「尚子の価値観は相変わらずよくわからないわぁ」
尚子は前に出て三人へ身体を向け、後ろ歩きをしながら話を続ける。
「だってアイスはすぐ溶けちゃうけど、チョコなら溶けにくいじゃん。それにアイスは一つだけど、チロルチョコだったら二十個もあるんだよ?」
「それなら私は溶けない上にもっとたくさん買える、うまい棒五十本の方がいいわぁ。もちろんサラミ味……あっ、尚子危ない!」
「え……?」
と、前に身体を向けた瞬間、少し前を歩いていた生徒に尚子は思い切りぶつかってしまった。ぶつかった拍子に足も縺れ、二人は床に倒れ込んでしまった。
「わっ。――っとと、すみませんっ!」
尚子はすぐにバランスを取って気を付けをし、生徒に向かって頭を下げた。前を歩いていた生徒は、望より少し背が高く、百六十五センチはありそうだった。髪はお団子状に束ねられ、スカートが入学したばっかの中学生のように長い。
尚子が謝ると、その生徒は立ち止まり、振り返るのかと思ったら、首を後ろが見えるぎりぎりのあたりまで回し、横目でこちらを見た。漫画で描いたらレンズが渦巻き模様になりそうなぐらい、度が強そうな黒縁の眼鏡を掛けている。
「こ、ここ、今度からは、き、をつけてくださいっ!」
目を泳がせてしどろもどろに言いながら、その生徒はその場から逃げ出すように前方に走り去っていってしまった。
尚子は立ち止まったまま、首を横に傾げた。
「先輩かしらぁ? 変わった人ねぇ。」
隣に並んだ望が首を傾げて人差し指を唇に当てながら言った。そう仰っているお二人もなかなかの変わり者だと思われますが――と恵理香は心の中でつぶやきながら、二人の後ろで立ち止まっていた。先輩と聞いて、自販機の前で会った金髪の先輩のことを思い出した。食堂にはあそこまではっきりとした金髪の生徒は見当たらなかった。
「あぁ言う人が案外、カトレアクラブの部員だったりしてね」
「まさか。それだったら私がカトレアクラブに選ばれた方が全然ましよ」
「えりちゃんがカトレアクラブかぁ……」
前の二人が再び歩き出したので、恵理香とあやめもそのまま前へ進んだ。
「確かに、えりちゃんがカトレアクラブの部員に選ばれたら、みんな納得がいくかもね。成績優秀。眉目秀麗。才色兼備とは正に森園恵理香のことである!」
「でも、恵理香には彼氏がいないわぁ」
前を向いたままあやめのべた褒めに口を挿した望は、そのまま横顔を向けて唇をゆがませた。
「彼氏のいるいないは関係ないの! だよね? えりちゃん」
「ん、あぁ……そうだね」
恵理香は空返事をした。容姿や才力を褒めらることは当然と分かっていながらも嬉しかったが、『彼氏』という単語は、恵理香の脳では認識できない言葉だ。知らない英単語のように、『カレシ』という響きだけが頭に入る。
「恵理香は中学からここにいるんだろ? それなら彼氏がいないのもおかしくはないんじゃないか? ここの学校は男性教員もいないんだし」
さっき先輩と思わしき生徒にぶつかったのをもう忘れたかのように、また尚子は後ろ歩きしながらこちらに身体を向ける。
「あら〜? でも恵理香ぐらいかわいい子なら、街を歩いてたらすぐに男が寄ってくると思うわぁ。よりどりみどりよぉ」
「そんな誰にでも声掛けてくるような男の人とは付き合いたくないわっ」
「あやめはまだ子供だから分からないのよぉ」
「まぁあたしもあやめの意見には賛成できるけどな」
一対二(当の本人である恵理香は不参加)の結果により、多数決に負けた望は、目をまんまるにして首をかしげた。
「話は戻るけど……恵理香って本当に彼氏いないの?」
「うん……」
ずっと黙っていた恵理香は尚子から目を反らしてつぶやくように言った。
「なーんだ。じゃあまだ処女ってことか」
「尚子。言葉を慎みなさぁ〜い」
はーい、と笑いながら尚子は答えて前を向いた。
広場には、生徒がこれでもかというほど集まっていた。朝の時の五倍、食堂の中の二倍の生徒はいるはずだ。
人混みに慣れていない恵理香は、緊張して少し手が震えた。
田舎で育った恵理香は、学校に通うまで大勢の人が一カ所に集まるという現象に遭遇することがなかった。村の住人は全員集まっても二十人程度だし、村人全員で集まるのも正月ぐらいのことだった。
人が多いのは食堂も変わらなかったが、食堂はその名の通り食事をするために集まっているが、ここでは一人一人集まっている理由が違う。つまり、人の多さに緊張しているのではなく、人の行っている動作の多さに緊張してしまうのだ。
テーブルでおしゃべりをしながらご飯を食べる生徒。窓際のベンチに座りながら笑いあっている生徒。吹き抜けの二階から一階を眺めている生徒。自販機でジュースを買っている生徒。女神のような銅像の前で携帯でメールを打っている生徒。立ち話をしている生徒。コンビニからビニール袋を手にぶら下げながら出てくる生徒。
一人一人の声が幾十にも重なり、一つの不協和音となって耳に侵入してくる。
紺色の制服の輪郭が曖昧になり、一人一人の生徒が黒い固まりのように映る。
「えりちゃん、大丈夫?」
あやめに声を掛けられたことによって恵理香は我に返った。
「ちょっと、目眩が……」
「えりちゃん人混み苦手だもんね。さっさと済ましちゃおうね」
そう言って並んで歩いていたあやめは、そっと恵理香の右手に左手を重ね、ぎゅっと握ってきた。手汗のかいていないあやめの手はさらさらとしていて、ほんのり暖かかった。心まで温かくなったかと思えるくらい、緊張がすぐに和らいだ。
「――ありがとう」
恵理香はお礼を言い、あやめの手を一回だけぎゅっと強く握った。