冬の海辺
領主として為さなければいけない事の中には、屋敷を離れてしなければならない仕事も多く、一年の半分を海の上で過ごすことも珍しくはない。
この後に控えている仕事のことを思いながらハルが呟くと、ルーグは息子を甘やかしながら、ははは、と声を上げて笑った。
「私がこうである以上、君が行かねば誰が稼ぐ。行っておいで、何、心配は要らない。最近は体調がいいんだ。ここ最近毎日、ルーディと庭の散歩だってしているんだぞ」
それだとて十分ほどの短い間ではあるが。
それは言わずにルーグが言うと、ハルは本当か、と言うように目を丸くしながら息子を見た。「本当だよ!」と息子が笑えば、そうか、と安心したような笑顔になる。
実際体調は右肩下がりで、妻のそんな笑顔を見ると嘘をついている罪悪感にじくりと胸のどこかが悲鳴を上げたりするのだが、真実を告げることはやはり出来なかった。
取られていた手を翻して、逆に取り返す。
己のものより一回り以上も小さい掌を握り締めると、それだけで胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「……船の上、潮風の中に立つ君が一番好きだ」
言うと、妻がふいと顔を上げて己を見た。顔を上げる妻の髪からふわりと漂う、潮の匂いに少し笑う。
出会ってから十年。
初めて妻を見たときに感じたこの思いが、形を変えたことはない。
「女と君を軽んじる水夫を、「馬鹿にするな」と怒鳴って拳骨で殴りつける君に恋をした。そんな君が私の病の所為で弱気になるなど、私の人生最大の屈辱だ。どうか君は私が恋した強い女のままでいておくれ」
「……この世広しと言えども、そんなことを言うのは貴方一人だろうな」
「私一人でよかったよ。他の男に君を取られる心配をせずにすむ……いつまでも愛しているよ、私の人魚さん?」
海の上で水夫と同じ仕事をこなしている所為か、細いながらも荒れているその指先に口付けながら言うと、妻はびっくりしたように目を見開いたあとで、「人魚のように泡にはなれぬ」と茶化したように笑った。
珍しく妻が照れているのが解ったので、「珍しいものを見た」と。
己も妻を茶化して、笑った。
パルメシア王国東の海を預かる「海原の領主」、ルーグが永の眠りについたのは、それから約二週間の後。
妻が西へと商用の航海に出た、三日後のことだった。