美奈子
そこは高校のときによく利用していた
茶色の喫茶店だった。名前が変で「ら・メール」といった。
何の意味かは誰も分からなかった。
美奈子と私はたいして親しいわけではないけれど
いつもその喫茶店でなんでもないことを
何時間も話し込んだ。
たいてい、美奈子の話は男の話になるので
私は美奈子が嫌いだった。
「男しかない女」と思っていた。
一度、会計を済ませ、
ふとい階段をのっしのっしと降りるときに
ふと、とんでもなく、寂しく、つらく、悲しい
嵐のような気持ちになって
あとから降りようとした美奈子を
綺麗なそのストッキングと
きらきらしたスカートの美奈子を見上げて、言った。
私は、自分でない人が きらいなの
え? と美奈子は言った
え?
じぶんが、ないひと?
私は首を振った
自分で、ないひと
美奈子
自分がなくなるなんて あるのかな
誰かに決めてもらい続けて
誰かの下にいつづけても
自分はなくならない
失ったと思うとき
私たちは隠しただけなんだ
たぶん、すっかり怖くなって
真っ白な顔をして
おなかの下に、隠れているんだ
ひとりで、いきをひそめて
いたみを かかえて
うわべの顔を、うわべを、おもてを
すべて誰かにまかせて
下の方で、おびえている
私たちが居る
「美奈子」
美奈子、と
私はもう一度口にした。
あれから何十年たっても
何度、何度だって
彼女を見ていて、私は泣きたくなった
嵐のような、さみしいさむい辛い気持ちが消えなくなった。
家に帰っても、胸の中が
吹きすさんだ。
女は、いつも、いつも、いつも
弱くて、かなしい かなしい
「美奈子、もう、お父さんに
認められなくていいんだよ」
美奈子はヒッと、叫んだ