恋はいつでも
「今日、ゴミの日なんだよ。昨日までに出しておくの忘れたから。うちのマンションの集配は、朝早いんだ」
吉野は言ってから、「ちょっと所帯じみていたか」と思った。色っぽい一夜を過ごした朝には似合わない。
「ゴミの日?」
彼は一瞬、きょとんとして、それからにっこりとした。笑みは呆れたようでも小馬鹿にしたようでもなかった。たとえ呆れていたとしても、気遣いの出来る男だから、表情には出さないだろう。
吉野は手早く服を身につける。いくら明度を絞った灯りでも、完璧なボディーを持つ人間にいつまでも裸体を晒していたくなかった。
「連絡先を教えてくれない?」
すっかり身支度を整え、「それじゃ」と言おうとした時に、彼がベッドから降りて近寄ってきた。
「なんで?」
「また会いたいから。まさかこれっきりってこと、ないでしょう?」
「う〜ん」
吉野はこれきりのつもりだった。気晴らしの相手とは後腐れなく一夜限りなのが良い。彼との夜はそれなり以上に悦かった。だからこそ尚更に警戒が必要だった。この男は、セックス・フレンドにするには上等すぎる。万が一、一度きりが二度になったり、下手に連絡先を教えて次を期待したり、あまつさえ社交辞令を真に受けてうっかり本気になりでもしたら…と思うとそら恐ろしい。今更しんどい恋はしたくないと言うのが、吉野の本音だ。
間近に迫る彼の顔は、明らかにキスの体勢に入っていた。その口元を、吉野は手のひらで押しやる。
「たいてい昨日の店で晩飯食ってるから、そこで会えるよ」
「それは、教えてくれないってこと?」
「縁があればってことで。それじゃ」
吉野はそう言って、部屋を出た。
――ほとぼりが冷めてからErebosに行こう。
などとツラツラと考えながら、駅までの道を吉野は歩く。昨夜、二人が一緒に店から出たことを奥平は知っている。すぐに店に顔を出そうものなら、興味津々に顛末を聞いてくることは目に見えていた。それに間を置くことで、彼の社交辞令の有効期限も切れるだろう。しばらくはコンビニ弁当になるのもやむをえない。
ところがErebosで会うまでもなく、吉野は彼と再会した。それもわずか二日後の週明け月曜日の朝に。
転属が遅れていた二人のうちの一人がやっと姿を現し、出勤してすぐ吉野は課長に呼ばれ引き合わされた。「あっ」と言う声が、吉野とその転入社員双方から同時に、多分、同じ驚きを含んで発せられた。
吉野の目の前に立つ男――木島慧は、つい一昨日、一緒に朝を迎えたあの『極上の男』だった。
総務課女子社員との『懇親会』と言う名のコンパで、吉野はどう見ても場違いだった。四十代はもちろん一人だったし、吉野が入ってしまったせいなのか、男の方が一人余る。「これはまずい」と店の入り口で適当な理由をつけて帰るつもりだったが、木島にぴったりマークされて機会を逸した。
店に入ったら入ったで、女子の誰もが狙っていたであろう木島の両隣は、一つは壁が、一つは吉野が埋めて大顰蹙。幹事の永浜が彼基準の完璧なセッティングのもと、恨みっこなしで席を決めていたのだが、店に入ると木島は、
「『おじさん達』は端でいいよ」
と強引に吉野の腕をとって、さっさと隅の席に座ってしまったのである。確かに吉野の次に年長ではあったが、彼を「おじさん」と呼ぶには絶対的な違和感があった。自分にあらぬ期待を抱く女性との会話を、極力避けようとしていることは明白で、「おじさん」発言も吉野の存在も、防波堤としての意味合いが強かった。
木島は友人関係を保つ女性とは親交を持っても、特別な好意を見せる女性にはそっけなかった。大人なのであからさまではなく、表面上は紳士的であったが。
彼ほどの容姿であれば、好むと好まざるとに関わらず異性が寄って来る。ゲイの知名度が一般的に上がったとは言え、よほどのことでないかぎり身近の、それも頗(すこぶ)る良い男をゲイとは疑わない。期待を抱くなと言う方が無理なのである。今までそのせいで木島自身が意図しないトラブルに巻き込まれたこともあるだろう。それでなくても興味がないのだから、木島にとって異性は、ますます煩わしい存在になったのではないか――と言うのが、半年間、同じ職場で過ごし、彼の性的嗜好を知っている吉野の見解である。
今夜の懇親会に吉野が参加することに拘ったのも、同好の士として煩わしさを分かち合いたかったのか。木島の思惑はどうあれ、懇親会の間中、吉野の居心地は最悪だった。女子社員から話しかけられると木島は一言二言当たり障りなく答えて、「吉野さんは?」と話を振る。誰も吉野の趣味やら、食べ物の好みやら、好きな服のブランドなどに関心はない。ウィットの利いた答えが返せればまだしも、ありふれた内容では場が白けるというものだ。吉野も疲れたが、女子社員も興味のない相手への愛想笑いでさぞ疲れたことだろう。
最近は苦手になった脂っこい系の料理だが、気を紛らわせるために口に運び、吉野は時間をやり過ごした。
「え?! 二次会、行かないんですか?」
支払いを済ませ、最後に店を出てきた永浜が、吉野を目の前にして言った。
懇親会が行われたイタリアンの居酒屋ではテーブル・チャージが二時間まで。その後は、場所を変えて飲みなおす算段にしているようだった。吉野ははじめから次に行くつもりはなく、もしその後を予定しているなら行かない旨を永浜に伝えてあったので、彼の焦った言葉は吉野に向けたものではない。傍らに立つ木島が、一緒に帰ると言い出したからだった。総務課女子のお目当ては木島で、言わば今夜の主役。その彼が来ないと知ったら彼女達の落胆は必至だった。
「そんなぁ、木島さん」
自分一人では説得は無理だと踏んだ永浜が、聞こえよがしに情けない声を出してみせる。計算通り、みんなが集まってきた。「行きましょうよ」と誰かが口にする前に、
「何だか寒気がするんだ。実は朝からあまり調子、良くなくって。悪いな」
眉を八の字に下げて、申し訳なさそうに木島が答えた。
「一人で大丈夫ですか? 私、途中までご一緒しましょうか?」
もう一人の主役、ミス横浜支社こと野添響子が言ったものだから、今度は男子社員たちが落胆の表情を浮かべた。
「いや、大丈夫です。吉野さんのところで、少し休ませてもらうつもりだから」
すっかり他人事で、電車の時間に気を取られていた吉野は、名前が出たので思わず木島を見る。吉野の自宅マンションはここから一駅で不自然じゃない。計算された方便だと呆れるより感心する。いっせいに視線が自分に向いたので、吉野は反射的に頷いてしまった。
木島が野添響子の魅惑的な申し出を断ったことに安堵する男達と、社内一の美人にも靡かなかったことでますます彼に好感を抱いた女達は気分良く次の店へと向かい、吉野と木島は駅方向へと分かれた。
「すみません」
吉野の手から水の入ったコップを受け取ると、木島は申し訳なさそうに言った。
二次会を断るための方便だと思っていた木島の体調の悪さは本当だった。ただし、理由にした風邪などからくるものではなく、酒の影響によるもの――つまり飲みすぎだ。