恋はいつでも
奥平が顎で示す方向を見やると、スタンド・テーブルにもたれて立つ若い男と目が合った。薄暗い店内にあって、彼には後光がさしている。それほど目立つ美形だった。彼のテーブルとその周辺には、数人が鈴なりだ。吉野は目を、ほとんど空になったナポリタンの皿に戻した。
「年下は趣味じゃない」
「俺たちの年齢で同年代や年上なんて言ったら、楽しめる時間は一瞬で、後は茶飲み友達一直線だぜ? 下手すりゃ介護だ」
「大げさだなぁ。でも茶飲み友達な付き合いでも、俺は一向に構わないよ。それほどセックスしたいと思わないし、体力もないし」
「他人事ながら、悲しくなるセリフだねぇ。彼、後腐れないとタイプだと思うから、気晴らしに今晩付き合ってみろよ。ああ言うキレイ系も、昔はイケてたろ?」
確かに学生時代はあの手のタイプとも付き合ったことはある。ただ最近の吉野の趣味はガタイの良い、どちらかと言うとマッチョ系だった。一緒にいて安心出来て心身ともに預けてしまえそうなタイプ――関目の顔が頭を過ぎった。失恋して一年が経ち、その一年で義兄弟の関係に慣れたはずだった。こうして何かの折に思い出すなんて、
――案外、俺も諦めが悪いな
と、吉野は自嘲気味に笑みを浮かべた。
「やっぱり、年下は、」
もういい…と続けようと目を上げると、奥平の姿は消えていた。オーダーが入って、そちらにでも行ったのか。
ふと、鼻腔に知らないコロンの香りが滑り込んだ。隣に人の気配を感じたので顔を向けると、さきほどの美形が座っている。吉野がぼんやりしている間にナポリタンの皿は目の前から消えて、代わりにオンザロックのグラスが置かれていた。奥平は気を利かせたつもりなのだろう。
「一人?」
「まあ」
彼の分のグラスを奥平が持ってくる。それをさっさと手渡すと、去り際、吉野にウインクを寄越した。「誘いに乗れ」の意味が含まれているのがわかった。奥平のお節介には辟易したが、表情には出さなかった。
それにしても惚れ惚れするような見目良い男だった。ありふれたVネックのグレイのTシャツにジャケットを羽織り、ジーパンに合わせただけのシンプルな装いであるのに、店内にいる誰よりもファッショナブルに見えた。緩やかなウェーブがかかった髪質に縁取られた顔には、彫りの深い、それでいて暑苦しくないパーツがバランスよく配置されている。外国の血が混じったハーフやクオーター特有の、日本人好きする美しさを感じた。実際、外国の血が入っているかどうかは不明だが。ともかく顔も体型もモデル並かそれ以上だった。
話し運びもスムーズである。営業職ならさぞかし成績がいいだろう、彼くらいの人材が一人いればずい分と楽なのにと思ったところで、吉野は心の中でため息をついた。オフ・タイムに仕事関係が頭に浮かぶのは良くない兆候だった。これだから疲れが取れずに溜まる一方なのだ。せっかく目の保養的美形が目の前にいて相手をしてくれているのに、色気がないことこの上ない。吉野は頭の中から仕事を閉め出すことに努め、彼との会話に集中した。
会話もアルコールも自然と進む。彼からは「慣れ」が窺えたが、悪い印象を受けなかった。さりげなくちやほやされることもまんざらではなく、吉野の身体も久しぶりにその気に傾いている。奥平の言うとおり、後腐れなく付き合うにはちょうどいいかも知れない。こうして話して飲むだけでも、かなりの気晴らしになる。
どれくらいかして場所を変えようと誘われた。とっくに過ぎた終電の時間と、腰に回された腕の存在から行き先はおのずと知れたが、「まあいいか」と吉野は導かれるままErebosを後にした。
目が覚めると、あきらかに自分のベッドではなかった。それに背中に人の気配がする。吉野が首を回して窺い見ると、あの美形が静かな寝息をたてていた。
――ああ、そうだ。あれからホテルに泊まったんだっけ。
彼の誘いに乗ってErebos(エレボス)を出た後、タクシーで向った先は吉野が察したとおりホテルだったが、ラブ・ホテルではなくビジネスホテルだった。フロントを通らずにあらかじめ持っていたカードキーで部屋に入ったことから、彼がここの宿泊客だと知れた。よその土地から引っ越してきたのだが、連絡の行き違いで荷物より先に着いてしまい、今晩一晩ホテルに泊まることになったとか何とか聞いたように思う。しかし適度にアルコールが入っていたのと、部屋に入るやいなや、すぐに二人してシャワーを浴び、事に及んでしまったので、はっきりしない。どうせ一晩きりの相手だから、どうでも良いことだった。
よく眠っている彼を起こさないようにコンフォーターから這い出て、ベッドの端に腰掛けた。遮光カーテンの合わせ目がずれて、指二本分の隙間を作っている。そこからまだ夜が明けきっていない、ほんのりと白む朝の色が見えた。
重だるかった疲労感は、吉野の身体から抜けていた。何やらすっきりとして目覚めがいい。久しぶりのセックスだったが、身体へのダメージはほとんど感じなかった。彼が吉野の深部に触れたのは一度だけ。その一度も、驚くほどに気遣われて満たされた後での一度だった。
荒々しい寄せと、緩やかな引き――快楽の波動に逆らうことなく、互いの官能を高めあうことに終止した一夜。
疲れの上塗りを覚悟していたのに、派生した甘やかな倦怠感とで相殺されてしまったのだろうか。吉野はくくっと喉の奥を小さく鳴らし苦笑した。どうやら性欲を自覚しなくても、身体はその処理を欲していたらしい。よく「溜め過ぎはよくない」と言うが、こう言うことかと吉野は身をもって納得した。
背後で動く気配がしたかと思うと腰に腕が回ってきて、吉野はそのまま後ろに引き倒された。頭が、眠っている…はずの彼の胸に落ちる。ちょうど吉野の耳は彼の口元近くにあり、「おはよう」と言う声を拾った。
「おはよう」
「どうかした?」
「目が覚めただけ」
吉野が身を少しよじる。意思を汲み取って彼は腕をどかした。吉野の頭が胸から離れると、彼はずり上がってベッドヘッドに背をもたせ掛けて座った。
ほどよい逆三角形の上半身が、微かな光を吸って暗さの中で浮かび上がる。抱き合った時、意外としっかり筋肉がついていることに驚いた。
――物好きなヤツだ。
顔も極上なら、身体も極上。Erebosで彼を囲んでいた連中は虎視眈々と機会を窺っていただろう。彼の容姿に相応しい相手は、あの中にいくらでもいた。なのに、カウンターの片隅で場違いにも夕食をとっていたサラリーマンと一晩を過ごすなんて、物好きとしか考えられない。
「風邪、引くよ。中に入ったら?」
ベッドの端に座ったままの吉野に、彼はそう言ってコンフォーターをめくった。
「いや、いいよ。もう帰るから」
吉野は目を眇めてベッドヘッドに埋め込まれたデジタルのアラーム時計を見た。電車はすでに動いている時間だった。脱ぎ散らかした服やら下着やらの中から、手探りで自分のものを探す。まず眼鏡が最優先だ。それはティーテーブルの上で見つけた。
「もう少しゆっくりして、一緒に朝飯、食わない?」
彼がルーム・ライトを一番絞って、しかし辺りが見える明度にしてつけた。全裸で下着を探す間抜けな姿を慮ってのことで、憎らしいほど出来た男だ。