恋はいつでも
永浜はそう言うと、時間内にデスクワークを片付けるべく、自分の席についた。今日のようなヤル気が常日頃出れば、もう少し彼の評価も上がるだろうにと思いながら、吉野も席に着く。会議に出るために後回しにした仕事が山積していた。懇親会のことをすっかり忘れていたので、いつも通り残業してゆっくり片付ける予定が狂ってしまった。
視界にまだ電話をしている木島の姿が入る。ただ立って受話器を持つだけの姿も絵になる男だ。容姿が良いだけではなく、仕事も出来、性格も良い。もてない要素が見当たらない彼が、いまだに独身であることを周りは不思議がった。とんでもない欠点があるのではないかとやっかみ半分で勘ぐる輩もいたが、彼の姿を見かけると女子社員はどんなことにも目を瞑れそうな勢いで色めき立つ。
木島が独身で浮いた話がないことや、ミス横浜支社が同席する懇親会に乗り気でない理由を、吉野は知っている。
独身なのは、たとえ結婚したいと思う相手がいたとしても、日本の法律がそれを許さないからだ。そしてミス横浜支社に限らず、相手が日本代表クラスの美人であっても、木島の乗り気は女性相手に出力されない。
木島慧の恋愛対象は異性ではなく同性であり、吉野は『同好の志』であることを、彼の着任当初から知っていた。
遡ること半年前、吉野倫成の勤めるクサカ製薬株式会社は中堅の卸会社を吸収合併し、株式会社KUSAKAと社名を変更した。
旧クサカ製薬はそれまでの製薬中心だった体制を見直し、卸販売部門を販売事業部として独立させることにより、医薬品ばかりでなくヘルスケアのフルラインを網羅し、再編が進む業界での盟主たる一角を占めようと模索していた。それには販売部門の強化・拡大が急務であったため、中堅ながらも全国、ことにクサカ製薬が弱かった西日本を中心に事業所を展開している、医薬品卸販売専門のナオハラと数年前から提携、この春合併に至ったわけである。
合併ともなると当然ながら人的移動が発生する。横浜支社でも数人の入れ替わりがあった。吉野の義弟・関目慎司もその一人で、新たに置かれた京都支社のリーディング・スタッフとして、妻で吉野の妹・菫を伴って栄転して行った。
両親は既に亡く、十四才離れた菫を親代わりに育ててきた吉野の身辺は一挙に寂しくなった。結婚して実家を出たものの、車で十五分程度の社宅に住んでいた菫は、毎週末には関目を連れて『里帰り』していたし、平日の夜でも吉野を夕食に呼ぶものだから――社宅の方が勤務先に近かった――、それまでの生活とさほど変わらなかった。しかし京都へ転勤となると事情は変わる。「ブラコン過ぎる」と菫を嗜めていた吉野も、いよいよ妹夫婦が去ってしまうと寂しさを否めなかった。
「不景気な面(つら)だな」
行きつけのBar『Erebos(エレボス)』のマスターで学生時代以来の友人・奥平賢斗(おくひら・けんと)が、カウンター席の端に座る吉野に特製ナポリタンを差し出しながら言った。なぜ特製なのかと言うと、メニューにないものだからだ。Erebosは酒と肴が主であり、がっつり系な家庭料理はメニューに載っていない。ナポリタンに使ったスパゲティも、本来はおしゃれなパスタ・サラダ用だった。そしてErebosはゲイが気兼ねなくゲイでいられる「ソレ系」のBarであり、食事を期待する客はいなかった。
「ここんとこ忙しいんだ。出て行く人数の方が多いのに、入ってくるのは少ないし、なのに仕事は増えるし」
手渡された皿を受け取ると、吉野はすぐにかっ込んだ。
吉野の所属する病院二課は、義弟の関目をはじめとする転出した社員に対し、転入者は少なかった。そのうちの二人がまだ前任地の引継ぎに手間取っていて、着任が遅れている。営業エリア拡大で今までの倍近い取引先を抱えることになり、今春入社の新人社員も抱えた現状では仕事が回らず、昇進してルート営業の現場を離れた吉野も、駆り出される始末だった。
「だからってうちを食堂代わりに使うなよ。どっかで済ませてから来てくれないかな。俺の自慢のレザーが所帯臭くなっちまうじゃないか」
奥平は黒いレザー・ジャケットの捲り上げていた袖口を下ろしつつ、鼻の辺に持ってきて嗅ぐ素振りを見せた。においがついているとしたら、今日はきっとトマトソースのそれだろう。
「せめてここで知り合った誰かと、デートがてら食べに行ったらどうなんだ?」
「面倒くさい。デートなんかしたら、遅くなるじゃないか。さっさと食って、帰って寝たいのに」
「だったら真っ直ぐ帰って、コンビニ弁当でも何でも食え」
「う〜ん、ケントの作るメシのが断然美味いからなぁ。この前の洋風親子どんぶり、絶品だった」
「ハッ、ダチに褒められても嬉しかないね」
奥平はそう言うと、常連客に呼ばれて場を離れた。
彼に言われなくても、まっすぐ帰宅した方がいいことは吉野にもわかっていた。Erebosへ来るには、途中で路線を乗り換える必要があったし、店が店だけに表通りから入り込んだところにあり、最寄り駅から結構な距離を歩くことになる。それでも日を空けずに通うのは、コンセプト通り気兼ねしないで良いからだった。それに一人でコンビニ弁当を食べる毎日が続くのは、どうにも寂しい。昔は妹のために炊事もした吉野だが、仕事で疲れた身体で、自分のためだけに食事の支度をする気にはなれなかった。そんなところをわかっている奥平だから、文句を言いながらも裏メニューを出してくれるのだ。
戻って来た奥平は、吉野がもくもくと食べているだけの姿を見てため息をついた。
「菫ちゃんも嫁に行って、やっと自由になれたんだから楽しめよ。恋人の一人や二人作って。人生、短いぜ? いつまでも『右手が恋人』じゃ虚しいってもんだろ」
彼は来店する都度に早く良いパートナーを見つけるなりしろと勧めた。
「俺は左利きです。それに今更、恋愛するのは疲れるよ。新しい人間関係も」
「枯れ過ぎだろ、みっちゃん」
「四十一になったから」
「俺の方が二つ上なの、知ってるか?」
二つ上でも奥平の方がよほど若々しく精力的だった。太りやすい体型を気にして、ちゃんとジムに通っては崩れを最低限に抑える努力をしているし、「若さを吸収する」と言って年下ばかりを相手にしていた。確か今の恋人は大学卒業したての新社会人ではなかったか。
吉野はと言えば、奥平とは反対に太らない体質だから良いものの、それでなければ「疲れた中年」に「メタボな」が確実に付加されていた。父親業に徹した年月は、恋愛の入り込ませる余地を吉野に与えず、妹が社会人となり自由な時間を持てる頃に恋をする気持ちは蘇ったが、何年かぶりに好きになった相手はその妹と結婚してしまう。『老いらく』の片想いの末の失恋に、疲労感は半端なかった。「しばらく恋愛は勘弁」と思わせるほどで、もともと希薄だった自分磨きは忘却の彼方に追いやられている。
「土日は連休なんだろう? 今夜羽目を外しても二日あったら回復するさ。遊んでみたらどうなんだ? 例えば、彼。さっきからみっちゃんに秋波送りっぱなしと見たけど?」