黒蝶の鱗粉
「宗治! ご飯できたぞ! 早く降りてこい」
遂にきたか死刑執行の時が……今日はどんな地獄が待っているのか……重い足をゆっくりと引きずりながら一階の食卓に向かっていった。
階段を下りていくと、早速腐臭が鼻についてきた。しかしその腐臭も今日は一際きつくなっている。何か嫌な予感がする。この臭いのきつさ……そういやチキンだって言ってたな……チキンって本当にチキンか?
そう思いながら食卓につくと、恐る恐るテーブルの上に盛られているものを見た。相変わらずご飯はウジのみだった。味噌汁にもウジが入っていた。もちろん卵も山盛り入っている。大量の蠅が辺りを飛び回り、おびただしい数の羽音が俺の耳を刺激した。これは予想していたこと。不快感はかなりのものだったが、覚悟をしていただけに精神的なダメージは思ったより少なかった。
ウジも蠅の幼虫だと思うから気持ち悪いだけで、エビだと思えばそんなに不味くない。問題は腐った指だ。不味い上に人の肉。ウジのようにポジティブに考えることで乗り越えられものではない。それだけが気がかりだった。
暫くすると母親が、にこにこしながら皿を運んできた。
「焼けたよ〜大きいでしょ? 骨付きチキン。うまいんだぞ〜奮発したんだから〜」
皿の上にのっているのは……人の……腕だった……
しかも、その上には表面を覆い尽くすほどのウジがこびりついていて、真っ白になっていた。当然蠅の数も尋常じゃない。ウジや蠅で食卓がごった返し、何が何処に乗っているか分からない状態だった。
「うわ……おいしそう」
俺は心にもないことを口走っている。その言葉を聞いた母親は気分をよくして
「ほら。お腹いっぱいって言っていたけど食べたくなったでしょ? ほらおまけ。もう一本食べていいよ」
そう言いながら、肉をもう一皿俺の前に出した。その肉も人の腕だった。これで俺の目の前に人の両腕が揃ったことになる。同じようにウジで覆い尽くされた腐った腕の様子が、生々しく俺の網膜に刻み込まれた。
俺はもう食卓であろうが、思いっきり吐いてもいいと思えるようになった。人のいないところ。食べ物がないところで吐こうとする余裕までも奪われたのだ。でも吐くことができない。何度も挑戦した。でも寸前のところで嘔吐物が胃に逆戻りした。
そうか、全部食べるまで吐くことが許されないんだ。俺の体は、俺を守ってくれない。俺を苦しめるように、いや俺の精神を破壊するために体が動く。まるで俺の意志とは別に肉体自体に意志があるのではないかと思ってしまう程だった。俺と俺を苦しめる意志。
ん? 俺を苦しめるものが俺の中にいる?
それって……
それって……憑依?
佐藤のお約束……霊の仕業?
霊に憑かれたのか?
いやそんなはずはない。何考えてるんだ俺。
オカルトに逃げ込むのは簡単だ。でもそれでは何も解決しない。この世にあるものは全て科学的な現象だ。オカルトに原因を求めるのは、科学を諦めた負け犬の典型だ。今こそ俺の精神性が試されているんだと自分を諫めた。
オカルトだと思ってしまうような奇っ怪な現象だとしても、絶対トリックがあるはずだ。そう思いを新たにした俺だが、目の前に迫っている地獄を乗り越えることが先だった。俺は、腐った人間の両腕を前にして息を呑んだ。
食べるのに躊躇して身動きがとれなかった。そうしているうちに、母親は、他の家族の分を食卓に次々に置いていった。
まずは妹の分。ん? 腕じゃないぞ……足? 膝から下が無造作に千切られて皿に盛られている。ふくらはぎの部分に卵が隙間なく敷き詰められている。それが次々に孵化して、肉を勢いよく食べている。
まさか……俺の前に両腕……だから腕以外の部分が出てくるのか……もしかして……家族で人間一人分の腐乱死体を……?
次は父親の分。妹と同じく足の部分だった。そして……最後に母親の分だった……
それは……それは……腐った生首だった……
見たくなくても俺の前に圧倒的な存在感でいる。俺の方に顔を向けて置かれていて、ふいに目が合ったときには恐怖のあまり一瞬呼吸ができなかった。息を吸おうと思っても喉のところで止まってしまう。恐怖が極限にまで高まると、考えられない反応が体に起こるんだと実感した。
金縛りにあったかのように指一本動かせずに固まっていると、俺の視線はその生首に集中してしまった。見たくないのに、目が離せない。体の動かし方を忘れてしまった俺は、やむを得ず生首をしっかりと凝視してしまった。
若い男性と見られるこの生首は例のごとく腐っていた。そのため、右半分は白骨化していて、残りの左半分は腐乱していて、元々人間だったことすら疑問に思ってしまうほど茶色く変色して、見るからにブヨブヨしているような違和感を覚えるものだった。
腐乱した肉の中はウジのすみかになっていて、大量のウジが忙しそうに頬肉を頬張っていた。また、眼球は跡形もなく食い尽くされていて、その部分には大きなムカデがウネウネと動いていた。
そんな生首を見て呆然としている俺をよそに、食卓には明るい声が響き渡る。
「いただきます!」
皆、勢いよく腐乱死体を食べ始めた。
母親の前にある生首から目を離せない俺は、生首の頬肉を嬉々とした表情で食らいついている母親に激しい嫌悪感を抱いた。ねちゃねちゃ音を立てながら、ウジもろとも口に入れる。汁をこぼしながらもそれを気にする様子もなく豪快に食べている。そんな姿をみていられなかった。
視点を妹や父親に移すと、同じく腐臭漂う死体を蠅にまみれながらも、それに動ずることなく黙々と食べる。死体やウジの汁を飛ばしながら平然とした表情で食べる。むしろ、何故お前は食べないのかと言わんばかりの表情を、俺に浮かべている始末。その瞬間俺は我に返った
俺は他人事のように家族の食事を眺めていたが、俺も食べないといけないんだった。絶望的な事実を思い出しつつ、これから自分が乗り換えなくてはならない地獄をじっと見つめた。そう、腐った両腕を……
腕がゆっくり動いていき、死体の腕を掴んだ。丁度死体と握手をするように握った俺は、肘の方からむしゃぶりついた。例のごとく、体が勝手に動いているのだ。俺は自分の体のほんの一部でさえ動かす権利がなかった。なすがまま、まさにその言葉が今の俺にピッタリだった。
握手をしている腕はブヨブヨしていて、少しでも強く握ると、皮が破れて中から白濁した液体が手のひらや甲にしたたり落ちてしまう。そして、自分の口に近づける度に耐えられない腐臭が俺の鼻の中に容赦なく入っていく。そして、ウジの動く音がピチャピチャと生々しく聞こえてきた。五感全ての感覚で俺にショックを与えようとしていた。
一番耐えられなかったのは、腐った腕の味だ。
腕を食べているという嫌悪感以上にどうしようもないほど不味い! そもそも腐っているものだからおいしいはずもなく、食べちゃいけないものを体が拒もうとしているのがよく分かる。食べようとする前に、俺の体は吐き出そうとするのだ。でも、何故か吐けないのだ。吐こうとする俺の体と、それを許さない俺の体。またしても相反する動きが俺を苦しめた。