黒蝶の鱗粉
苦しみながらもどうにか半分程食べることができた。骨が見えてきた腕は、腕がどのようにできているのか分かるほど、体の中身が生々しく見えている。その上、黄色い汁がしみ出てきて、気持ち悪さに拍車をかけた。あまりにも強いショックに意識を何度も失いそうになりながらも腕をむしゃぼりつく動きが衰える兆しがない。
暫くするとあの動きが始まった。
腹から羽音が聞こえだしたのである。腕から口にしたウジが消化されることなくサナギになり、羽化して胃の中で飛び回る。体を内側から攻撃するその動きに絶望感を抱くしかなかった。蠅はしきりに飛び回り、体の外に出ようとする。胃から食道へと至る道を探しながら胃壁に何度もぶつかる蠅の動きに俺は耐えるしかなかった。遂に食道への道を探し出すと勢いよく口に向かって羽ばたいてきた。
――うおおおおぉぉぉぉ!!!
口から数十匹の蠅が飛び出してきた。俺はもう情けなくなって涙が出そうになった。
やっと腕を食べきった。いつものように強制的な体の動きから解放されるとふらふらになりながらトイレに向かった。トイレに着くと、やっと吐くことができた。
――うげげげぇぇぇっ!!
意識が朦朧としながらも、自分の部屋に向かっていった。自分のテリトリーに入りたい。腐乱死体を美味そうに食べている家族を見ていたら、家族までも化け物に見えてきた。俺が見ているのは幻で本当は本物のチキンを食べているのだとしても、目の前で起きたことがあまりにも衝撃的だったため、理屈で分かっていても割り切れなかったのだ。だから、家族団らんに自分が入ることはとうていできなかった。
自分の部屋だけが落ち着ける場所。だから、何が何でも自分の部屋に行きたかった。二階にある俺の部屋。途中に階段がある。四つん這いになりながらもやっとの思いで到達することができた。
俺の部屋にはパソコンがある。前まではレビューを書くことで至福の喜びを得ていたもの。でも、今ではそれすらできない。何もすることがない俺は……いや、何もする気になれない俺は、ベッドに腰掛けながら、目の前にある窓を呆然と見つめていた。白い壁に窓がある。床から五〇センチ程の高さにある窓。その窓にはカーテンがかかり、外から見られないように隙間なく閉じられている。このカーテンは、窓の大きさと同じもので、床から同じく五〇センチ程上で音もなく揺れていた。
呆然として眺めていたカーテンだったが、窓を開けていないのに揺れていることにふと疑問に思った。もしかして閉めていると思い込んでいるだけで、本当は窓が開いているのかな? と思い、窓を閉めようとゆっくり立った。その瞬間、
――ドテ
カーテンの奥から、血まみれの女が降ってきた。そして勢いよく床にぶつかると、潰れた頭から血が噴き出し床を深紅に染めた。
俺はゆっくり意識が遠くなると、床に倒れるのをスローモーションのように感じていた。更に意識が遠くなり、周りの風景が次第にぼけていく。目の前が真っ暗になって、意識を失った……と思っていたが……
真っ暗な中から、何かが見えてきた。カーテンから降ってきた女だ……
女は俺めがけて落下してきた。ぶつかる! そう思ったのも束の間、俺の目の前数センチ程手前で……
――べちゃぁぁぁ!
顔が潰れていった。まるで、俺の目の前に透明の板があって、その板にぶつかって潰れたような形になった。潰れた顔が鮮烈に俺の脳裏に刻まれる。その生々しさに意識を失うどころか、鮮明になった。人から肉の塊になっていく過程がありありと分かる。頭が割れて中から脳が飛び出てきた。その脳と一緒にテラテラと光る透明な液体が飛び出し、それが目の前に広がっていった。
大量の血と混ざり合う脳髄……暫くすると、ヒタリヒタリと俺の頬に垂れてきた。
意識を失っているはずなのに生々しく見える惨劇。これは夢なのか……でも目の前の風景は信じられないぐらい生々しい。驚きのあまり思考が停止している中、潰れた女が、ゆっくりと立ち上がった。死んだのではないのか。そう思った俺だが、不気味に動く女を強烈な恐怖心でもって見つめるしかなかった。女は、流れ落ちる血に頓着しなかったが、こぼれ落ちた眼球には気になったようで、手探りで探し当てると、慎重に元の位置に戻した。そして俺を不敵な笑みでみつめると、かみしめるようにこういった。
「今日までだよ。今日が最後……」
俺は意識を失った。