篠原 求婚2
「なら、なぜ、今更、逃げるの? 」
「あ」
そう、あれから家には戻っていない。仕事先での情報は手に入るが、日常的なことまで
は無理だ。熱を出したほと、ショックだったのか、と、思ったが、板橋は、そのことを知
らないだろう。少しおかしい。
真剣な顔で、板橋が詰め寄る。さすがに、実は、先日、ちょっと縊りそうになって・・
・距離をおきました、とは、正直に言えない。
「結婚しなさい」
唐突に、指を突きつけられた。まさに、鶴の一声だ。
「あの、お母様、それは・・・」
「今度の週末に、必ず、家に戻って、義行が言うことに、なんでも、『はい』と答えなさ
い。」
「え? 」
「それで、すべてがうまくいきます。」
「あの、それは? 」
「どうせ、あの子のことだから、うまく言えないだろうけど、とにかく、あの子が、何か
言ったら、『はい』と頷きなさい。いいですね、小林さん。」
ものすごい迫力で、「はい」と、素直に頷いた。何が、どうなったら、そんなことにな
るのだろう、と、疑問に思ったが、板橋は、何事か、そういうことがあったから、ここに
依頼に来たらしい。
「とりあえず、私がお願いしたいのは、そのことです。」
「・・はい・・・」
自分が他人の迫力に負けるなんて・・・昨日のことを思い出して、ため息を、もう一度
吐き出した。いまだかつて、こんなことはなかった。
ただ、今日は家に帰らなければならない。もし、帰らなければ、板橋の顔は、鬼と化す
ことだろう。
妹は、今度の週末は帰れないと連絡をくれていた。教授のお伴で、北米へ出かけるとの
ことだ。
夕刻に、食料だけ仕入れて、家に戻った。いつものように、妹のために料理をして冷凍
しておくためだ。今日、帰れなくても、週のどこかで時間ができたら、取りに来るように
言ってある。一週間分というわけではないが、それなりのものを用意するには、二、三時
間はかかるから、ちょうど、いい暇つぶしになる。
タッパーに収めて、冷えるまでは、そのまま放置する。たくさん作りすぎたので、かな
りのタッパーが埋まっている。まあ、いいのだ、もう一人の同居人も料理は苦手だ。もし
、戻らなくてもメモを残しておけばいいだろう。
なんだかんだと家のことをしていたら、すっかり、日が暮れていた。シャワーを浴びて
一缶だけ買ってきたビールを開ける。最近、少しだけ飲酒の癖ができた。アルコールを飲
むと、とりあえず前後不覚に眠れることを発見したからだ。ひとりきりだと、なんだか寂
しくて、テレビをつける。見るつもりはなくても、音があると気分は落ち着く。苦いビー
ルを半分ほど飲むと、眠りが訪れる。
・・・・たぶん、今夜も会えないんだろうな・・・
散々に、誰からも説教されたことを思い出して、頬が歪んだ。確かに、説教される意味
はわかる。だが、そこで、自分には、彼女を愛したいとか独占したいという感情がないの
だ。
傍には居て欲しい。だが、触れ合いたいと思うこともない。周りが指摘するように、た
ぶん、自分には彼女が必要ではあるだろう。必要だが、自分のものにしたいという気持ち
はない。ただ、純粋に傍に存在していればいい。それ以上には望まない。
それはおかしい、と、誰もが言うが、本当に、それだけだった。この星で、自分の傍に
居てもらうために、婚姻が必要だというから、そうするだけだ。
「・・・でも・・・なんか・・・ニュアンスは違うな・・・」
周りが言う婚姻と、自分が考えている婚姻は違うものだと思う。その違いが明確には理
解できない。
そろそろ、睡魔に負けてきた。テレビを消してしまうと、無音の空間になる。
最近、このソファで、よく寝ているなあ、と思いつつ、目を閉じる。ここなら、二階へ
上がるために必ず通るから、ここで待ち伏せするためだった。
・・・ごめん・・・本当に、わがままだ・・・・
麟に教えてもらった言葉を告げるつもりはない。正直に、頼んで、許してもらえるなら
、あのリングを渡そうと思っていた。
いつになるのか、わからないが、とりあえず、待っていよう。そのうち、きっと、戻っ
てくることもあるだろう。
気が重くて、職場で仕事をしてから、家に戻った。それも深夜に近い時間だ。
これなら、眠っているだろうから、戻っても問題はないだろうと考えた。とにかく、戻
ったのだから言い訳は立つ。
玄関を入ると、居間の明かりが灯っていた。まだ起きているのだろうか、と、そっと扉
を開いた。明かりは煌々と点いたままだった。ソファには、パジャマ姿で寝転がっている
人がいる。卓上には、ビールの缶があって、飲んでいたらしい。飲酒の趣味はないから、
少し不思議に思った。だいたい、虚弱体質になっているのに、飲酒はないだろう、飲酒は
っっ。
荷物を放り出して、ソファの横に座り込む。久しぶりに見る寝顔は、少し疲れている様
子だ。
「起きて、篠原君。・・・こんなところじゃ、風邪を・・」
そう呼びかけて、気づいた。先日、熱を出した原因は、これだと気づいたからだ。たぶ
ん、私が戻るのを、こうやって待っていたのだろう。
・・・・だから、自分の身体のことを考えなさい、と、いつも・・・・
そう、いつも口煩く注意していたのは、二ヶ月前までだ。自分が距離を置いてから、こ
こで、それを言うものはいない。
「もう一度、お風呂に入れたほうがいいかしら・・・」
毛布もない。身体は少し冷えている。温めて、ゆっくりベッドに寝かせたほうがいいだ
ろう。
「・・あ・・・おかえり・・・」
そんなことを考えていたら、相手が、ようやく目を覚ました。
「篠原君っっ、いくら空調があるといっても、こんなところで寝たら、どうなるか、わか
るわよね? 」
「・・・ああ・・・うん・・・」
「どうして、身体のことを考えないの? せめて、毛布くらい用意して・・・」
いつもの調子で怒鳴っていたら、相手は、ふわりと微笑んだので、言葉に詰まった。
「おかえり。」
「・・・うん・・・」
「あのね、話したいことがあって、待ってたんだ。」
「それより、あなたはね。」
「うん、それは大丈夫。ちょっとは、丈夫になってるからさ。それより、話を聴いてくれ
る? ・・・ああ、夜食は用意してあるから、とりあえず、着替える? 」
酔っている様子もなく、彼は立ち上がる。いつものように、迎えてくれる。台所へ向か
おうとするので、その腕を掴んだ。
「話があるなら、先にして。」
「でも、疲れてるだろ? 」
「いいから聞かせて。」
じゃあ、座って、と、彼は席を勧めて、やはり台所へと向かった。お茶ぐらいは飲んで
、一息入れて欲しいと、用意してくれた。
「難しい話じゃないんだ。」
「・・・うん・・・」
なんだか、珍しく、考えるように単語をひとつずつ選んでいる。先日の板橋の話から察
すると、彼は求婚する気になったらしいが、おそらく、そんなことではないだろう。ただ
、「はい」 と、だけ頷けばいいと命じられたが、きっと、そんなものではないだろう。