篠原 求婚2
。つまりは、それは真っ赤な嘘ということになる。
「それなら、仕事は休ませたほうがいいんじゃないのか? 」
「いえ、それなりに気晴らしにはなってるみたいですから。それに、昼食は、細野さんが
無理に口にさせてくれていますからね。」
伊達に護衛兼秘書なんてしていない。細野が、傍にいる限り食事を抜くなどということ
はできない。板橋家との連絡も頻繁に取っていて、体調などは確認している。ただ、それ
にも限界というものがあって、いちいち帰宅まで同行することはない。
「あれか? 」
「ええ、あれでしょうね。」
息子が、こっそりと用意したものに、母親は気付いている。滅多に着ないスーツだが、
それを手入れするのは母親の仕事だからだ。もちろん、それは、父親にも報告はされてい
た。
「会えないままなんだな? 」
「みたいですね。」
「せっかく、義行が、その気になったのになあ。うまくいかないもんだ。」
その気になった息子は、週末ごとに、自分の所有している家に戻る。だが、相手が戻ら
なくて、会うことができないのだ。それまでは、どんな無理をしてでも、顔を合わせてい
たはずの小林が避けているらしい。
こういうものは、タイミングだと父親は思う。たぶん、この機会を逃したら、もう、息
子は、その気にならないような気がする。
「あのな、母さん。・・・ちょっと、向こうと連絡を取ってみるというのはダメだろうか
? 」
あまり親がしゃしゃり出ていいものではないが、さすがに、これは進展が望めない。過
保護と言われても仕方がないが、少しくらい手助けしてもいいだろう。
「私も、それを考えてました。親バカとか言われそうだけど、この際、親バカに撤してみ
ようかな、と、思います。」
母親のほうも、そのつもりになっていた。このままだと、また、熱でも出す。それぐら
いなら、多少の恥ずかしさは我慢できるような気がする。
「ここは、やっぱり女同士かな? 」
「そうですね。」
残された息子の湯飲みを目にして、父親は苦笑する。あれが、夫婦湯のみになるのだ。
「義行のことだから、書類だけなんだろうけど、せめて写真ぐらいは残しておきたいなあ
。あの子の場合は正装用の制服になるのかな? 」
「どうですかしら? できたら、着物を着せたいけど。」
「うーん、小林さんは金髪だぞ? それは無理があるだろう。」
「別に、鬘をつけるのではないから問題は無いですよ。義行は、肩幅がないから、七五三
みたいになるだろうけど。」
夫婦ふたりして、想像すると、かなり楽しい。背中を押してやれば、すぐに、その想像
は実現するだろう。
「幸せになって欲しいよ。・・・辛い目にあったんだ。そろそろ、幸せになってもいいと
思うんだ。」
しみじみと、父親は吐き出した。酷い怪我をして、辛い目に遭った。だから、それを忘
れられるほどの温かいものに包まれて欲しい。
「これからですよ。私が、しっかり、小林さんと対決してきますからねっっ。」
母親のほうも、そう吐き出して、お茶を飲む。
休日だというのに、朝から息子は庭で水遣りをしている。帰らないのか、と、尋ねたら
、夕方に戻ると返事した。
たぶん、昨日、妻がやらかした親バカについて、息子は知らないらしい。粗方に水をや
ると、ふうと溜息を吐き出した。
「仕事が忙しいか? 」
理由を知っていて、それは無視した問いかけをしたら、息子は苦笑して首を横に振った
。
「まだ、仕事らしい仕事はさせてもらえないんだ。今のところは、アカデミーの聴講と挨
拶周りぐらい。」
「でも、ここのところ疲れているだろ? 」
「・・・うん・・・まあ・・・いろいろ・・・」
言葉を濁して、息子は、ホースをクルクルと巻き取って、いつもの場所に収納した。そ
れから、花壇の傍にしゃがみこみ、草むしりを始める。
随分とリハビリは進んだのか、右手がスムーズに動く。さすがに、小さなものは、掴み
難いのか、そこだけは左手が代わっている。あの右手だって、最初は、ただの付属物のよ
うに、だらりと垂れ下がっていた。それが、そこまで動くようになったのは、毎日のリハ
ビリのお陰だ。少しずつ少しずつ、動かない腕は、曲がるようになった。
「なあ、義行。いろんなことは、元通りになるまで時間がかかるものだ。焦る必要はない
。」
「・・・うん・・・」
「急激なリハビリをしても、筋肉痛になるだけで動きはしなかっただろ? 」
「・・・うん・・・」
ずっと変わらずに、一対だったものは、急激に変化することはできないのかもしれない
。
「あのな、たぶん、何も変わらないんだよ。」
「・・え?・・・」
「おまえが、どんなリアクションを起こしたところで、何も変わりはしない。ただ、それ
までと、ちょっと違うことはあるかもしれないが、たぶん、ほとんど変化なんてないはず
だ。・・・だから、思うようにすればいい。」
私の告げている意味が、よくわからなくて、息子は首を傾げている。たぶん、今夜にで
も、その意味がわかるだろう。いや、今夜でなくても、近日中には理解してくれるはずだ
。
「お父さん? なに? 」
「まあ、そのうちにわかるさ。・・・あまり、長く日光浴していてはいけないぞ。」
「・・う、うん・・・」
不思議そうな顔を向けて、息子は頷いた。たぶん、何も変わらない。ただ形式的なこと
が変わるだけで、実質的には、以前から見かける完璧な一対のままで存在するだろう。
友人宅で目が覚めて、ふうと溜息を大きく吐いた。昨日のことが、まだ、きっちりと衝
撃として頭に残っているからだ。
基本的に秘書に面会なんてものは少ない。昨今は携帯端末があって、近しいものなら、
そちらへ連絡してくるからだ。だから、受付から、アポイントメントを求められて絶句し
た。それも相手が問題だ。
「板橋さん? 女性? はい、すぐに。」
慌てて、階下へ飛んでいくと、やはり、板橋家の唯一の女性が待っていた。
「時間の都合がつくまで待ちますから。」
「いえ、大丈夫です。」
「人の居ないところでお話したいのですけど、そこの公園までよろしいかしら? 」
逆らいにくい相手である。それも、真剣な顔だから、余計に遮れないものがあった。何
事だろう、と、考えても、これといった問題は思い浮かばない。公園までの道で、一言も
話さなかった。他人に聞かせたくないというなら、それなりに重要な話であるだろう。
公園の中は、人影もまばらだった。誰もいない場所まで移動すると、ようやく、板橋が
口を開いた。
「あまり、親が出しゃばるものではないと思うのだけどね。さすがに、黙っていられなく
なったの。」
はあ、と頷いたものの、やはり意味はわからない。何か、大切なあの人にあったとして
も、情報がまるで流れてこないのはおかしい。
「・・・義行ね、この間から、ちょっと食欲が落ちていて、熱を出したのよ。ご存知?
」
「・・え?・・いえ・・・」
「雪乃さんは、義行が求婚したら断らないわよね? そう、私におっしゃったはずだわ。
」
「ええ、でも・・」