千夜の夢
7.優しいカフェオレ
「風邪?」
天気の良い土曜の朝、親友からの電話で目覚める。ふいにあの日の朝を思い出し、懐かしい気持ちになった。あれからもう3ヶ月が過ぎて、千笑さんとはもう気心が知れた旧友のように心地よい時間を過ごしていたんだけど。その彼女の体調が優れないらしく、今日は一日安静にしているとの事だった。
―つまり今日はいつもの日課はなし。
そういう事だったんだけど・・・。
上條家のプライベートエントランス。屋敷の裏側にひっそりと設けられたスペースは、とても裏口だなんて薄汚れた言葉じゃ片付けてはいけない、そんな豪奢な造りだった。立派なゲートにはセキュリティが何重にも掛けられていて、その全ての解除キーを間違わないよう慎重に叩く。ゲートを抜けてエントランスホールに入ればまた番号認証を求められる。
―まるで監獄だな。
アクセスが承認されドアのロックの外れる音が、静かなホールに響く。今きた経路を振り返り、小さく溜息をついた。
「外が、ものすごく遠い・・・」
やり切れない気持ちをホールに残して、冴は中へと入っていった。そして最後の手続き。中の人間、すなわち上條家の顔パス。インターフォンを押し回線が繋がるのを待つ。
「ハイ・・・ぁ、れ・・・冴ぇ?」
拍子抜けしたような士の声。少し元気がないように思えた。
「お前も具合悪いのか?」
カメラのレンズをじっと見つめて問い掛ける。こちらに姿は見えないが、向こうには冴の姿が映っているはずだ。
「いやぁ?大丈夫だけど?」
―普通の人間なら騙せるだろうな、ソレで。
「まいいや。とにかくチョット入れて」
ロックが解除されたドアを後ろ手に閉めた。インターフォンの操作パネルがあるのは入ってすぐの廊下と、突き当たりのリビングだけ。
―ここに居ないなら士はリビングにいるはず。
冴は廊下を真っ直ぐに進み突き当たりの部屋のドアをゆっくりと開いた。午後の日差しがたっぷりと注ぐ真っ白なリビングは灯りなど必要ないと言わんばかりの眩しさだった。士はその大きな窓の前に座り、暖かな陽を受けたフローリングを愛しそうに撫でていた。
「大丈夫か?」
思わずそう声を掛けると、いつもの微笑みが返って来る。大事な所は笑ってごまかす。士はいつもそうだ。
「千笑さんは?」
上着を脱いでソファに掛けると、冴も士の前に腰を下ろす。
―暖かい。
心地よくて、思わず目を閉じた。
「さっき病院から戻って、今は部屋で寝てる・・・」
士の言葉に再び眼を開けると、士も瞳を閉じていた。
「・・・病院行くほど酷い風邪なの?」
しばらくして沈黙を破るように士の瞳が開く。それはどこか物憂げで、投げやりな淋しい瞳だった。
「ホラ、千笑ちゃん虚弱体質だから。ちょっとの風邪でも油断したら肺炎起こすでしょ?念の為だよ」
それ以上何も答えたくないのか、それとも答えるつもりが無いのか、士は再び瞳を閉じてじっと動かなくなった。取り付く島の無い親友との会話を諦め立ち上がると、カウンターの向こうのキッチンへと向かった。いつものようにケルトに水を注ぎ火にかけて、コーヒーがしまってあるキャビネットを開ける。それは静かなリビングには心地よいほどの音で、なぜかそんな事に小さな幸福を感じた。もしかしたら、士も同じように感じていたかもしれない。きっとそうだろう。士の膝にかかっていた陽の光がすこし傾いた頃、やっと士は姿勢を崩したかと思えばゆっくりと倒れ、丸くなって眠りだした。
―やっぱりどこか変だな。今日のコイツは。
湯気のたったカップを1っ持って、士の脇にしゃがみ込む。
「士・・・こんなトコで寝るなんて、お坊ちゃま失格だぞ」
「・・・気持ちいいぞ。お前も寝たら?」
「いや、オレはもう帰るから」
冴の言葉を受けて士がパッと起き上がる。
「・・・冴、何しに来たの?」
―ストレートに失礼な事を言うヤツだな。
「コレ飲めよ。どうぞ、お坊ちゃま」
「・・・?白い・・・」
「カフェオレだよ。ミルク多めの。ふさいだバカと病人へのお見舞い」
「バカ・・・」
「間違ってない」
「そりゃ、確かに・・・。俺はふさいだバカだ、うん」
「あっちは千笑さん用。ちょっとぬるめになってるから。もしまだ寝てたら白いポットにあるのと取り替えて。 ミルク入ってるからあんまり暖めすぎるなよ」
「サスガ・・・冴」
「お前のは砂糖少なめにしてあるけど、ミルクが強かったらコーヒー足せ。赤いポットのはブラックだから」
テキパキ指示を下すと上着を羽織りドアへと向かう。すると、不意に背後から笑い声が上がった。
「ぶっ、はははははっ!お、お前ッ・・・最高だな」
腹を抱えてひぃひぃ転げまわる士を唖然と見つめる。こんなに爆笑している士はレアだ。
「なんなんだお前は」
訝しげに振り返ると、士の瞳から陰りが消えていた。
「いや、これ効いたわ。サンキュ」
そう言ってカップを軽く持ち上げ、にっこりと笑った。
「まだ飲んでないだろ。じゃあな」
「ぁ、まって冴!」
「なに?」
「テラスの千笑ちゃんの白バラ…綺麗に咲いたから、見てってあげて」
「―うん」
それを最後に振り返らずゆっくりとドアを閉めた。テラスの白バラは千笑が丁寧に世話をしてきたもので、一身に愛情を注がれたそれは柔らかな風を受けて愛らしく揺れている。
「・・・千笑さんみたい」
ポソリと思わずこぼれた自分の言葉にヤケに気恥ずかしくなった。すると、思いもよらぬ事が頭上から降りかかった。
「あの、ありがとう」
「え?」
驚いて見上げた先には少しはにかんだ千笑が、部屋着にガウンを羽織った姿で顔を出していた。
―あ、ありがとうって言ったか今・・・まさか聞かれてた?立ち直れないくらい恥ずかしすぎる・・・。
「私も、そのバラ達みたいに愛らしかったら良かったって、思ってました。だから・・・あの・・・」
―やっぱ聞かれてたっ。
赤くなった顔を必死で隠そうと下を向いてバラを見る振りをした。
―もうこの場から消えたい。
「ぁの、冴さん・・・」
「な、に?」
なんとか平然を装って千笑の方に視線を向けると、先ほどのカフェオレのカップを持っていた。
「コレ、ありがとう。・・・―美味しい」
柔く優しく微笑む姿に、先ほどまでの気まずさが解けていく。
「風邪が悪くなるから、もう入って」
千笑の笑顔につられる様に、冴もふわりと微笑んだ。部屋の中へ戻っていくのを見送ると、冴もテラスを後にした。
何度も何度も振り返って、小さくなっていくバラ園を見た。あのバラがいつまでも美しく咲き続けている、そんな未来を思い描きながら―。