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千夜の夢

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6.夫婦



うちの両親は、決して不仲なわけではない。息子である俺達を大事にしてくれているし、両親自身も互いに思いやっている。父は仕事で留守の多い人だったが、たまに家に戻れば家族には優しかった。特に母さんの事は、とても大事にしていた。

―それも事実だった。



今日もキッチンでは冴が静かにコーヒーを淹れてくれている。いい香りが部屋中を行き交う。冴はコーヒーを淹れている時、一言も口を利かない。とても真剣で、そして優しい顔をする。以前尋ねたら「普段の膨れっ面では味が落ちる」んだそうだ。信じ難い事だが本当だった。試しに、コーヒーを淹れる冴にしつこい程にちょっかいをだしてイラつかせてみた事がある。眉間には見事な大渓谷が出現。味は飛び切りひどかった。それは“冴にしては”なのだが。「お前の責任だ」と、冴はものすごく怒った。それ以来絶対に話しかけないよう心がけている。余るからといって俺にもコーヒーを注いでくれるのだが、いつも多めに湯を沸かすのを知っている。冴は稀に見る天邪鬼で、不器用で、甘えベタで、それでいて誰より優しい。周りをよく見ているし、察知するのもすごく早い。そう、我が家の異質な空気にも恐ろしいほど敏感だった。

「士」

リビングでくつろいでいた俺のちょうど正面に神妙な面持ちで腰掛けた。上條家には多くの使用人も暮らしている。屋敷の建物は外観的には大きく1つだが、屋敷内ではきっちりと家族と使用人のスペースは分けられている。ここは上條家のプライベートゾーン。使用人も滅多に入ってこないので冴も気兼ねなくやってくる。

「なに?」

相手の変化に気づかない振りをして微笑む。俺は本当に嫌なやつだな。

「そろそろ教えてくれてもいい」

冴も負けじと切り返す。お互いにしらばっくれながら、互いが互いの意図を掴もうと意識が遊泳する。冴はまるでひく気はないらしく、まっすぐに士の眼を見てじっとしている。逃げは許されないんだと士に観念させるにはそれで十分だった。

「・・・何から話せばいい?」

姿勢を整え士もまっすぐに冴を見る。満足したように頷いて冴は口火を切った。

「親父さん・・・」

なにか言いづらそうに言葉を切る。

―お前が苦しむ必要はないんだ。

士は心苦しくなって自分からその続きを口にした。

「付き合ってる女性が居るよ」

何でもないように言ってみせる。事実これは何でもない事だ。どこにでもある話だし、珍しくもない。ただの“不倫”と言ってしまえば、よくある話なのだから。

「それ・・・千笑さん、知ってるんだ?」

半ば確信を持った言い方なのは、千笑の言葉の中からそれを感じ取ったからなのか・・・。

「うん、知ってるよ。俺と千笑ちゃんは知ってるし、千笑ちゃんは父さんの不倫には協力的だから」

「どおゆう事なんだよ・・・それ」

やるせない気持ちで冴がうなだれる。

「・・・父さんが18の時に2人は結婚したんだけど、その当時父さんには付き合ってた人が居たんだよ」

「それが、・・・その人なのか?今も・・・」

「うん。その人は今も独身で父さん一筋なんだって。ちょっといい話?」

軽く笑っておどけてみせる。冴の顔は余計に曇った。

「それで千笑さんはいいわけっ?」

「協力的だって言ったろ?」

ケロリと言い返す。

「そこがオカシイんだ!なんでだよっ旦那が不倫してるってんだぞ?!」

「・・・千笑ちゃんには、恋愛感情・・・とか、ナイからさ・・・」

「ぁ・・・」

一瞬にして冴の顔に悲しみが広がる。
そうだ、冴はわかっているんだ。母さんには恋愛感情ってものが装備されてない事を。どんなに想いを伝えたくても決して届いてくれない歯がゆさを知っているんだ。母さんには家族愛以外の愛情を受け取る場所がない。愛され方を知らない。だから眼の前の冴の愛情にも気づけない。それはとても悲しいことだ。

「ごめんな、冴」

「・・・何謝ってる」

―だって泣きそうな顔してるじゃないか。

「いや、ありがとう」

俺は感謝の気持ちを込めて笑った。

「だからなんでっ?」



半泣きの親友を見つめながら、俺はずっと笑っていた。母さんをこんなにも想ってくれる人が現れた。嬉しくて、なんかちょっと悔しくて・・・でもやっぱりすごく、嬉しかったから。



作品名:千夜の夢 作家名:映児