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千夜の夢

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30.彼女が選んだ人





随分堂々と宣戦布告をしてくれたな。



母さんを愛する人間同士、イーブンでなくちゃいけない。医学留学でアメリカに行っていた珠生が帰国した事を聞き、士は珠生と連絡をとった。

―母に恋人ができた。

そう報告すると、珠生は驚かずに「面白い」とだけ言った。何がどう面白いというのかはまるっきり分からないでもなかったが、どちらかというと面白くはない立場のはずだ。珠生が母を愛しているのは明白で、それは自他ともに認める事実だった。息子である士も、夫である優も、千笑本人もよく知っている。白石珠生は親友の妻を心から想っている。そう言葉と行動で示してきていた。珠生は百合子同様、千笑の為に医者になった。珠生は13歳の時初めて千笑と会ったらしい。千笑は珠生よりも3つ上の16歳で、アメリカから帰国したばかりでまだ幼さを残した少女だったが、その時すでに人妻だった。一目惚れしたその時にはもう、相手は他の人間のものだった・・・なんて、ちょっとだけ切ない。むしろムゴイ。しかもそれが初恋だとすれば余計に神様ってやつは意地が悪い。そもそも俺を母さんの息子として生まれさせるなんてそこからオカシイんだから。ともあれ長年の片想いを積み重ね、一切手も出さずに健気に見守り続けた結果が今この現状。どこぞの馬の骨とも知れぬ男に横合いから奪われたなど全くもって笑えない。しかも相手は中学生。逆に怒りすら覚える。しかし、それを「面白い」と言った。どうするかと思えば急に押しかけてきて宣戦布告。

―確かに面白い。

士が顎に手をやり「ふうむ」などと小首を傾げて唸ると、冴が珠生を見上げ言った。

「諦めません」

一瞬の沈黙の後、揺るぎない声が響く。180cmほどの身長の珠生に対して、冴の身長はまだ170cmにギリギリ届いていない。張りつめた表情で上から真っ直ぐに射抜かれても怯むことなく、冴は珠生を見上げている。珠生の言葉を受けてほんの一瞬顔を歪めた冴だったが、すぐにそれを拭い去り今は迷いのない顔で立っているようだ。その姿を一歩離れて見ていると、なんだかまるで他人のように見える。冴が人前で自分の意思表示をする事など滅多にない。持論を振りかざす事は多々あれども、それはただ単に煙に巻いているに過ぎなかった。人を突き放す為の逃げ口で、冴の本心はいつもそこにはない。だが今、自分の我を通す為に冴は自らの本音を口にした。冴は頭のいい少年だ。頭だけで考えるなら自分が千笑には相応しくないと理解出来るはずだ。千笑は既婚者で、自分よりも16歳も年上で、大きな病も持っている。中学生の自分にしてやれる事は何もない。それでも、どんなに頭で考えようとも譲れないものは誰にでもある。もちろん珠生にも。

「君に何が出来るの?」

「・・・傍に居る事しか出来ません」

「それで千笑の結核が良くなるのか?」

「いいえ」

「聞けば君と出会ってから千笑は無理ばかりしてるそうだね」

「・・・・・」

冴が悲しそうに眉をひそめた。それについては全て千笑の意思による行動だったが、士は口を挟まずただじっと黙っていた。

―今俺が冴の代わりに弁解するのは、冴をガッカリさせる行為だよな。

士はぐっと堪えて冴が口を開くのを待った。冴は視線を落したまま、ただ悲しい眼をしている。言い訳なんて探してない。ただただ悲しい眼をしていた。

「君は自信がないんだろう?最期まで千笑の傍に居る自信が。傍に居る事さえ出来ないんじゃないかという不安があるんだ」

冴の表情がどんどん痛々しくなっていく。

「自分が傷つくのが怖いから、目を背けたくなる。どんどんクリアになっていく現状が恐ろしくてたまらなくなる。だから逃げ道ばかり探す。今さえ良ければいい。そんな子供に千笑の貴重な今を占拠されたくないね」

「オレは、逃げるつもりはない・・・」

「見ぬふりをするのは逃げているのとどう違うんだ」

明らかに冷たくなっていく珠生の声音は、数歩離れた場所にいる士の脳裏をも鋭く撃ち抜く。逃げているのは自分も同じ、目の前の現状から目を背けているのも事実。そう思うといたたまれない気持ちになって思わず目を伏せた。珠生がもう一度口を開きかけ小さく息を吸い込んだ時、リビングのドアが勢い良く開いた。全員が一斉にドアの方を見ると、開いたドアに寄りかかり肩を震わせている千笑が居た。その姿を見た冴が、咄嗟に駆け寄り千笑の体を支えた。その眼はどこまでも心配そうで、戸惑っている。珍しく表情を歪めた千笑が珠生を見据えて声を張った。

「冴を責めるのはやめてちょうだい!」

突然の事態に全員が口を開けたまま呆然としている。涙目で怒りをあらわにする千笑は震える喉を押さえてもう一度怒鳴る。

「冴は何にも悪くないのよ?!私の結核は誰のせいでもない!私が勝手に好きになって、私が勝手に騒ぎ立てているだけなのに!!私は・・・っ、冴に何かを求めて傍に居て欲しいんじゃないっ!冴を責めるんなら・・・た、珠くんだって許しませんよ?!」

興奮して身を乗り出そうとする千笑の肩を、冴が躊躇いがちに引き寄せる。

「千笑さん・・・もう良いから・・・」

「良くないですっ」

そう言い放った反動のせいか、千笑の瞳から涙が次々に溢れ出した。いつも垂れ下った眉尻を信じられないほど吊り上げ、子供のように真っ赤にした鼻を啜る姿は本当に小さな少女そのものだった。急に力が抜けたように崩れ落ちていく千笑をなんとか支え、冴は自分の体の方へと引き寄せた。涙でびしょ濡れになった顔を冴の胸に押し当て、背中に手を回しぎゅうっとしがみ付く。

「あなただって、・・・私が間違ったら、あんなに怒ってくれたじゃないですか・・・」

2人の間から洩れてきた千笑の声は本当に本当に小さかったけれど、確かにそこに居る皆に届くような澄んだ声をしていた。

「でも、勝手に好きになった・・・だけとか、言わないでよ」

泣き顔の千笑がそっと顔を上げると、冴は優しく微笑んで言った。

「好きになったのは、お互い様だ」

人目も気にせず抱き合う二人がどうしようもなく愛しくて、俺はそっと笑った。



きっと冴だったらタマも納得するだろうって思ってたんだよ。俺がそう思えたのと同じようにきっと。
だって、あの母さんが選んだ人だろ?



作品名:千夜の夢 作家名:映児