千夜の夢
29.白石珠生の登場と警告
悲しみの宿った百合子さんの瞳は、痛々しいほど千笑さんにそっくりで、オレの喉は詰まってしまった。それと同時に、千笑さんの病状があまり思わしくないのだと再確認する。いつまでもこのままで居られるはずはないと、分っていたつもりが・・・。
「どちらさんもごっきげんよーう!!」
張りつめた空気を弾くように、リビングのドアが勢いよく開いた。驚いて一斉に目を向けると、見た事もない男が満面の笑みで立っていた。
「白石珠生、只今参上〜!!」
シライシタマオ、と名乗ったその男の肩には嬉しそうにはしゃぐ率が乗っかっていた。率の人見知りが相当ひどいのを冴は身をもって経験済みだったので、すっかり懐いている様子を見ると顔なじみであろう事が分かった。肩で暴れる率を下ろし、次なる標的に向かってその男は突進し出した。
「つ〜かさ〜♪おっきくなりやがってコノーッ!!」
珠生の抱擁を見事にかわし、士は心底嫌そうな顔で言った。
「っタマ!来るなら来るってなんで一言言ってくれないの?!百合子さんといいタマといいほんっとアポなしで急に押しかけてくるんだから!」
大きなため息を吐き出し、士はガシガシと頭を掻き毟った。下ろされた率を手招きし、自分の膝の上にのせた。
―士は本当にブラコンだなぁ。そしてマザコン・・・。家族愛の人。
冴の思考遊泳をよそに、アポなしコンビが衝突しあう。
「ちょっと士。そんな低能なおサルと一緒にしないでよ。身内のあたしがいつ何時姉さんに会いに来ようがそれは自由なのよ。そっちのおサルはまったくの部外者でしょうが」
「いや、自由すぎ・・・」
士のツッコミをよそにおサルこと珠生が迎撃を開始した。
「うーるせぇなぁ。俺だって優の了解を得てここに来てるんです〜。身内の権限を利用して勝手しまくる百合とは違うんです〜」
―どっちもどっちじゃないか。
冴が内心ツッコミを入れた所でやっと珠生がキッチンの冴の存在に気が付いた。
「士の友達?」
冴はのっそりとキッチンから出てくると、申し訳程度に頭を垂れ「宮元です」とだけ挨拶をした。千笑に良く似た百合子に対して冴にしては友好的に自己紹介が出来たのに、相手が赤の他人ともなるといつも通りの無愛想な冴に戻ってしまう事に自分自身でも驚いていた。しかし、そんな態度を気にするでもなく珠生はまた笑顔を浮かべて言う。
「俺は白石珠生。士のとーちゃんの後輩兼親友。ついでにそこの女とは大学の同期生。よろしく」
差し出された手に一瞬戸惑ったが、同じく右手を差し出し軽く握り返す。するとまた、珠生は柔らかな笑みを浮かべた。その微笑みが千笑のそれとだぶって、一瞬ドキリとする。そこで丁度湯が沸き、冴はキッチンに戻ってヒーターのスイッチを切る。その脇に置かれた鉄製のミルは冴が家から持って来たものだ。ガリガリと豆を挽く音と香りがリビングに広がっていく。中細挽きされた豆をサイフォンのロートに入れ、フラスコに湯を注ぐ。慣れた手つきでコーヒーを淹れる冴の事を、百合子と珠生が食い入るように見ていた。
「随分本格的なんだなぁ」
―近い。この人パーソナルスペース狭い。
「いい香り。姉さんが好きな豆なの?」
―この人も近い。あ、そういえば千笑さんもだ。
「後は待つだけですから」と言ってタオルで手を拭い、睫毛を伏せ捲っていた袖を下ろした。その姿を見て珠生が感心したように唸る。
「お前・・・なんていうか色気があるな宮元」
そう言って冴の肩にポンと片手を置いた。
「は?」
開いた口が塞がらないままの冴に対してさらに追い打ちをかける。
「15の割には大人っぽいし?どことなく雰囲気があるいい顔だ」
訳も分からず困惑しきった冴にとどめの一撃。
「でも、千笑を支えるにはガキ過ぎる。彼女の事は諦めて貰うよ」
先ほどまでの緩み切った笑顔は嘘のように消え、鋭い視線を冴に注ぐ。
―・・・ちょっと、待て。今、なんてった?と言うか・・・この男は誰だ?
分かってたよ。十分過ぎるくらい分かってた。ずっと、この先ずっと・・・一緒に居る事は出来ない。オレと千笑さんとを隔てる大きな壁。目の前のこの壁を必死によじ登って来たつもりでいた。でもそれは間違いで、オレの腕に飛び込んで来てくれたあなたの勇気に気づくんだ。下を見るのは怖かっただろうな、その足が震えただろうな。全てを投げ打って奮ったあなたのその勇気に、オレは応えてあげられないのかな。
オレはあなたを失うのかな。