千夜の夢
31.甘い昼下がり
あんなに心からあなたでいっぱいだった幸せな日。
いつまでもあの昼下がりの中に居たいと願っていたよね。オレ達2人、どこまでも寛いで穏やかで幼くて・・・笑顔。
百合子と珠生の襲来の日から一夜明けたその日、極上の秋晴れ空の下テラスに出てコーヒーを飲もうということになった。屋根の下に設置されていたベンチを日当りのいい場所へ引きずり出して、隅の方に置いてあったコンテナをテーブル代わりにしてトレーを置く。ベンチの砂埃を手で払い、「よし」と小さく漏らすと背後から呼びかけられる。
「準備出来た?」
硝子戸を半分だけ開き、士が顔を出す。その顔はどこか嬉しそうで落ち着かない雰囲気を漂わせていた。
「うん、でも・・・いいの?外に出して」
「百合子さんもタマもテラスに出るくらいなら構わないって言ってたよ。大丈夫、返っていい気分転換になるよ。ずっとベッドで横になったままも辛いでしょ」
にっこりと笑って言う士を見て、冴は内心ホッとしていた。ここ最近の千笑の体調不良で、士は相当参っていた。顔には出さないように努力していたようだったが、平気そうにしていたのがその証拠だった。最愛の母親が体調を崩し長い間寝込んでいたのに、まるで焦りを見せない士は不自然なほど気丈だった。周りに心配されたくない一心での取り繕いだったのだろうとは思うが、親しい人間にはバレバレだっただろう。現に昨日の百合子と珠生の士を見る目はとても心配げだった。でも今目の前にある笑顔には、嘘偽りはまるで感じられない。心からの安堵が広がっていた。
「じゃあ、キッチン行ってくるから千笑さんを呼んできて」
「わかった」と言ってのんびりと踵を返し、階段を上がっていった。それを見送り冴も室内に入り、すっかり冴専用になってしまったスリッパを軽く蹴り上げるようにして履くと、士が上がったのとは違う場所の階段を上がり、キッチンを通り過ぎてそのまま突き当りの部屋をノックする。中から人の動く気配だけが返ってくるが返事はない。ここはまだ3歳の次男率の私室だ。時間的に昼寝をしているはずだったが、起きている気配がしたのでゆっくりとドアを開ける。ベッドでうつ伏せになっている率の上に、天窓からの日差しがちょうど当たっていて気持ちよさそうだった。
入ってきた冴の姿を視界に捉え、率が声を上げた。
「・・・さーえ」
その寝起きで情けない声に冴は思わず笑った。
―相変わらず“さーえ”なんだな。言いにくいのかな?
「りっくん、ちょっとお話していい?」
「・・・おはなし?なにー?」
ちょっと舌ったらずな口調でのんびりとした率の喋り方はどこか千笑を思わせる。つられて冴の口調も緩んでしまう。
「りっくんはママの事好きー?」
起き上がった率の隣に人一人分くらいの間を空けて腰を下ろし、まっすぐに前を見て尋ねた。率は寝起きでボーッとしているのか、いきなりの投げかけに戸惑っているのかしばらく黙っていた。
「ママすきー。おにいちゃんもすきー。きのぴーもよっちゃんもパパもすきー」
―きのぴーとよっちゃんて、木下夫妻の事か・・・。
「そっか、みんなの事好きかあ」
冴はちょっとだけ眉を歪めて笑った。
―“パパもすき”。
これほどまでに家を空けている父親をも好きという率のあどけなさが少しだけ憎らしかった。千笑の子。千笑と上條優の子。父親とよく似た顔で、千笑のように喋る子。今まで感じる事のなかった醜い感情が湧きあがって止まない。父親似と言うだけで、千笑似の士に対してとはこんなにも変わるものだろうかと驚く。まだ3歳の罪のない子供。その小さな子供に対して、冴は恐ろしい感情を抱いてしまうのではないかと怖かった。冴の表情がどんどん曇ってきたその時、率が冴の腕をちょんと掴み言った。
「さーえの事もすきー。ママを笑わせてくれるから」
「ぇ」
驚いて視線を率に移すと、にこにこと機嫌よさそうに笑っていた。こんなに小さな子供が偽りを語るはずもなくそれはきっと心からの言葉だ。
「ぁりが・・・、」
―何それ・・・違う違う。
「オレも、りっくんの事好き」
そう言うと率は本当に嬉しそうに笑い、喜びの余り立ち上がって部屋中を駆け回り出した。「すきって言われちゃった」と何度も繰り返しながらバタバタと騒ぐ率を、冴は愛おしい気持ちでずっと見ていた。
いつまでも騒ぐのを止める気配がなかったので、冴は仕方なしに率の腕をそっと掴み動き回るのを止めさせた。
「ねえ、りっくん」
「なあに?」
「オレね、ママの事好きなんだ」
「?」
「ママの事が大好きで、1人占めしたくなる時があるんだ」
「僕のママ?」
腑に落ちない表情でそう尋ねる率に対して、冴はコクリと頷いて見せた。しばらく考え込むような仕草で「うーん」と唸っていた率だったが、ふいに顔を上げて再びとびきりの笑顔を咲かせた。
「じゃあ僕のママ貸してあげる!今日はずっとシトリジメしていいよ!!」
「・・・ありがとう」
―士が率を溺愛する気持ち、分かったかも。・・・ちっちゃい千笑さんみたい。
頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。率の小さな両腕が冴の体にギュッとしがみ付く。するとそこへ、士が入ってきた。
「何やってんの?さーえ♪」
いつも士は率の前だと一緒にふざけてそう呼んだ。
―こんな風にふざける士にも最近ではもう腹も立たないなあ。
率は立ち上がって兄の傍に駆け寄ると、興奮した様子で言った。
「あのねあのね!さーえにすきっていわれた!!」
「冴・・・男児もイケるクチ?」
―前言撤回。
コーヒーポットを持ってテラスに戻ると、肩掛けと膝掛けを完備した千笑がベンチにちょこんと座っていた。テラスに持って来てあった靴に履き替え、千笑が座っているのとは反対側から回って冴も座った。ちょうど暖かい日差しが真上から射し、たまにそよぐ風が金木犀の香りを運んで来る。ベンチのすぐ脇にはダンデイエローの胡蝶蘭が微笑むように揺れ、ちょうど開花期を迎えた千笑の誕生花であるイヌサフランの花が花壇から顔を出している。開花期になると葉がなくなり、花だけが束になっていくつも現れるそうだ。花言葉は“永遠・頑固・裸のあなた・悔いなき青春”。「頑固は当たっている」と自分で言って笑っていた。たくさんの花に囲まれながら、冴はポットのコーヒーをカップに注ぎ、砂糖を1っとミルクをたっぷり入れた。それを先ほどセットしておいたコンテナの上にゆっくりと置き、左手で千笑の右手にそっと触れた。千笑はベンチに伏せていた手を軽く持ち上げ、その隙間に冴が自分の手を差し入れるとそれに指を絡めた。
「寒くない?」
「はい」
微笑みを交わすと、どちらからでもなく体を寄せ頬を合わせる。耳元にキスするように冴が零した言葉は、千笑を幸せな気分で満たした。
あの日、あんなに口が緩んでいたのはどうしてだろう?
恥じらいも恐れもなく言った言葉には、もちろん偽った曇りは一片もない。
誰の前でも自信を持って言うよ。
―だいすきだ。