千夜の夢
28.神前百合子2
誰にだって苦手とか不得手な事があるもんだろ。それは決して悪い事じゃない。でも苦手な事から逃げちゃあいけない。そう、逃げてはいけません。
「なんで入れちゃうかなぁ冴ッ!!」
ある穏やかな秋日和の昼下がり、親友がいつも通りやって来た。
―ただし、余計なオプション付き。
士はその人物を視界に入れるや否や開けたばかりの玄関ドアを勢いよく閉めた。そして先ほどのセリフだ。冴はドア越しに嘆いている士に一瞬あっけにとられてしまったが、気を取り直してもう一度インターホンを押した。なんとかこのままやり過ごせないものかと思案しているうちに、インターホンが連打される。恐らく今度は百合子の仕業だろう。リンゴンリンゴンと休む間もなく鳴り響く中、士はモニターは使わずにその場で叫んで対応する。
「うるせーー!!冴お前それどこで拾ってきたーーー?!」
「ソレとは何だソレとはあ!!百合子様に向かって舐めた口利くなぁ!!」
「いいから速やかに帰れ!!アンタ来ると本当ろくな事ないからマジで帰ってお願い消えて!!」
「泣いて喜ぶほどあたしに会いたかったなら素直にそう言いいなさいよ!漏れなく毎週顔出してあげるわよ!!」
「何をどうしたらそう解釈出来るんデスカ!頭おかしいんじゃねぇのアンタぁ!!」
果てしなく続く下らない言い合いに冴が痺れを切らして勢いよくドアを蹴った。冴の左足のスニーカーの跡がくっきりとそこに残るほどに。
「いいから早く中に入れろバカヤロウッ!!!!」
一瞬しんと静まり返り、やっと再びドアが開いた。30センチ程の隙間からソロリと顔をのぞかせると、呆れ顔の冴とにやけ顔の百合子が並んで待っている。観念したように大きな溜息を吐き出しドアを大きく開け放ってさっさとリビングに引っ込んでいった。背後で2人が何やら言葉を交わしているが話の内容までは聞き取れない。本当は気になって仕方がなかったが、士は百合子と同じ空間に居るのが苦手だった。物心ついた時から百合子に数々の悪戯を受けてきた士だったが、どれもこれも悪質で嫌悪を抱く理由としては十分過ぎるほどのものだった。百合子から聞かされた非常識極まりない話を常識として植えつけられて育った士は、幼少時代数少なかった貴重な友人達から白い眼で見られ、中学に入ってからは成績表の通信欄に「上條君は優秀な生徒ですが一般常識に欠けます」とまで書かれた。それを見て千笑は「褒められて良かったですねえ」とのほほんと笑った。浮世離れした父と世間知らずな母、そして非常識な叔母。どう頑張っても子供が常識的に育つはずもなかった。そんな欠陥も最近になっては何故か「君は異彩を放っている、素晴らしい」などと言われるようになり、周囲の人間の見る目が若干変わったようだ。見る目が変わった、と言うよりも士に対する扱いが窮屈なものに変わってしまったが正しいのだろう。常識離れした性格と、国内屈指の大企業の令息ということも相まってだんだんと誰も寄り付かなくなった。そんな中、変わらず友好関係にあったのが唯一冴だけだった。冴もまた「異彩を放つ」人種だったのでどこか気が合った。言いかえればはみ出し者同士同調したに過ぎない。ともあれ百合子の嫌がらせにはほとほと嫌気がさしていた士だったので、出来るだけ百合子と関わりたくなかった。いくら千笑の妹と言えど、大人しく良い子にしているのにも限界があるというものだ。
「士ぁ!士くーん!!あたしブラックー!!豆から挽いてね〜」
リビングに入るなりソファーに倒れ込んだ百合子がコーヒーを催促する。これはいつもの事だったが、今回そのご要望にお応えするのは士ではなく冴である。
「あ、オレが淹れたコーヒーで良かったら・・・一緒に」
―あーれー?冴がなんか弱々しい?
「あら、いいの?君は姉さん専用機とかじゃないんだ?」
驚いたように目を見開き、「いや、別に」と辛うじて返した冴がキッとこちらに睨みをきかせてくる。慌てて小さく首を振り「俺じゃない俺じゃない」と主張する。恐らく、千笑本人が百合子に話したのだろう。士じゃないとなるともう他に居ない。
「近年歳の差カップルってけっこう増えたけどさぁ!息子の友達と恋人同士とかすんごいよねえ?」
悪びれもなくあっけらかんと百合子が笑顔で言った。
―もーやだマジやだこの人本当やだ。何で言うかな敢えて避けたい話題を今ここで言うかなあ!!信じらんねーこの女!!
「ちょっと叔母さ、」
「だぁあれがオバサンだあ!!百合子様はまだ27だッ!!」
「その“オバサン”じゃないし!!」と言う間もなくクッションが士の顔面に思い切り投げつけられた。視界の片隅で冴が「うわぁ」という顔をしているのがチラつく。
―コレがあの人の妹だなんて信じがたいだろう、冴よ。
「ったく。ホント口の悪い子」
そう言って煙草を取り出し口に銜え、手際よくライターを擦った。
「百合子さん」
士が神妙な顔で百合子を制した。百合子はハッとしたように動きを止め、銜えていた煙草をケースに戻した。
「ごめん、つい癖で。悪かったわね」
病人が暮らす家の中で喫煙など言語道断。もちろんこの上條家も全室禁煙となっている。それを重々承知しているはずの百合子が思わず煙草を取り出すとは、相当ストレスが溜まっていたか普段通りに見えてもよほど余裕がないかのどちらかだ。もしくはその両方である可能性も高い。
「・・・頼むよ士。もうそろそろ姉さんを病院に入れて」
さっきまでの態度が嘘のように、今にも泣きだしそうな百合子が震える両手をギュっと握りしめて言った。
突然のこの人の来訪には理由がある事くらい分ってた。その理由ももちろん知っていた。そしてそうしなければならない事も十分理解していた。
―でもまだダメなんだ。あの人をもっと、幸せにしなくちゃ。・・・それだけじゃない。もっとあの人と居たいんだ。あの人の傍で生きていたい。このままずっと逃げ切れるはずもないのに、俺はそう願うんだ。