千夜の夢
「はいはい」
―って、なんでこんな夫婦みたいな会話を・・・しかも俺が嫁ポジション。
すでに視界から消えた冴に返す言葉はなく、仕方なしに携帯を取り出して自宅の番号を呼び出した。
<はい、上條家でございます>
木下夫人の穏やかな声が応えた。上條屋敷の裏の居住区には直接繋がる外線は設けられていなかった。毎回このようにして表の屋敷側に電話をかけ、内線をつないで貰わねばならない。滅多に自宅に電話する事などなかったが、非常に面倒だ。
「ヨシノさんですか?ご苦労様、士です」
士も柔らかな声音で労いの言葉をかけた。“ヨシノ”というのは木下夫人の名前だ。夫妻を揃って“木下さん” と呼んでは区別がつかないので、夫人の方を士達は名前で呼んでいた。
「あら・・・士坊ちゃんでしたか、お声が旦那様に似てらしたから一瞬分りませんでしたよ。すぐ奥様にお回ししますね」
「ありがとう」と言うとすぐに保留の電子メロディが流れ出した。束の間、カノンに耳を傾けながら待つとその音が止み、カノンにも負けない愛らしいメロディを紡ぐように千笑が応えた。
<士さん、雨降りそうですね!傘持ってますか?迎えに行きましょうかっ?>
外を見ると空は暗く曇っていて今にも降り出しそうだった。士はチラリと鞄の中の折り畳み傘を見遣ると、それを取り出し机の中に押し込んだ。
「うん、傘忘れちゃったから迎えに来てほしいな」
「わかりました!」と張り切っている千笑の声を心地よく受け入れ、その姿を思い浮かべながら幸せな気持ちで教室を後にした。
例えばこんな風に、人は変われる。