千夜の夢
26.上條士的幸福論
あの晩、俺は祖父のところへ謝りに行った。
部屋に入ってから始終背中を向けていた祖父は、俺が謝罪するとあの事には何も触れず「もういい」と言って片手をひらりと挙げただけだった。その背中がいつもより小さく見えたのは、部屋の明かりがスタンドランプしかついていなくて薄暗かったせいなのか、それともいつもはピシリと伸ばされた背がやや丸められていたからなのかは分らなかった。ただ、その時俺は思い出した。祖母の葬儀の時も、祖父はこんな背中を見せていた事を。分かって欲しい、あの人の素晴らしさを。変わって欲しい、あの人の笑顔の為に。
―そう思うのは勝手でも、そうさせるのは難しいな本当に。
午後の授業もそろそろ終わりを迎えようとしていた。左後方の窓際の席をチラリと振り返ると、陽だまりの中で頬杖をついて今にも落ちてしまいそうな冴が必死で意識と手を繋いでいた。厳しい事で有名な鬼の英語教師のライティングの授業中にも関わらず、驚くべき余裕を見せている。他の生徒はと言えば一言一句書き漏らすまいと必死に机にかじりついて黒板に書かれる内容を書き写している。士も例に漏れず、ノートはしっかりと書き取っていた。残暑はすっかりどこかへ消えて秋色の空が広がり出し、空気も徐々に冷え込みだした事で、冴はブレザーの下にカーディガンを一枚着こみ始めていた。冴は暑いのが苦手だが、寒さにも同じくらい弱い。真冬にはワイシャツの下に長袖のTシャツを更に着こみ、その上から半そでのTシャツまで着ている時もあるそうだ。もちろん校内は冷暖房完備ではあったが、外気温との差プラスマイナス5℃までという制限の元で稼働されていた。冴曰く「まったくの無意味」だそうだ。ハッとして顔を上げるとまた黒板が長文の解説文や注意点でビッシリ埋め尽くされていた。要点を拾って慌てて書き写す。するとふいに鬼教師が視線を上げ、まどろみ始めていた冴を鋭く指名した。
「宮元!例題3にある文法を使用した文章を前に出て書け」
冴は眠そうな目をうっすらと開き教科書にチラッと視線を落とした。すぐに無言でガタガタと椅子を鳴らし立ち上がると、ゆったりとした足取りで教壇に上がって白いチョークをつまみあげた。
―例題3か・・・ちょっと面倒臭いねぇ冴くん。
先ほど習ったばかりの英文法が2っ組み込まれている。殆ど授業を聞いていないように思えた冴だったが、迷うことなくスラスラと黒板に応用文を書き出していくと、最後に力強くピリオドを打った。書き終えた冴は席に引き返そうと黒板を背にする。鬼教師の頬が、にわかに引き攣った。
「待て、読んで和訳しろ」
恐らく正しい文章が書けているのだろう。前に出て書かせるまでは分かるが読ませるというのはライティングの授業スタイルからは若干外れている。鬼教師のちょっとした意地悪だ。冴は無表情のまま小さなため息を吐くと、黒板を背にしたまま英文を読み上げた。
「After understanding my ability enough, I am behaving. Therefore, the mistake is not violated.」
完璧な発音で読み上げると、続けて和訳する。
「“私は自分の能力を十分理解した上で行動している。よって、間違いは犯さない”」
今度は教師の指示をその場で待った。すると短く「よろしい」とだけ発せられ、鬼教師は次の生徒を指名していった。それを受けて冴が席へ戻る。
―これだから冴は生徒にも教師にも受けが悪いんだ。
次に指名された生徒が黒板の前で悪戦苦闘しているところで終業のチャイムが鳴った。鬼は虫の居所が悪かったのか、いつもより多めの宿題を申しつけると号令もなしにさっさと教室を後にした。入れ替わるようにして担任が入って来る。最後の枠は授業がなかったらしい。スムーズにHRが終わり、クラスメイト達が騒がしく退散して行った。あっという間に教室に残されたのは冴と士だけになった。静かな教室内に、遠くの喧騒が転がり込んでくる。それが少し心地よくなって士は小さく笑った。
「厭味な生徒だねぇ。あんな英文をパパッと書いちゃって。しかも完璧に」
左後方を振り返って、嬉しそうな笑顔を向けた。さっきまで無表情だった顔に不機嫌の色が広がった。冴は士が学校で話しかけるとよくこの顔をするが、見たまま不機嫌なわけではない。咄嗟に変えられる表情のレパートリーが少ないだけだ。(ある人物に対しては別として)
「どっちが厭味だ。オレは言われたとおりの事を忠実にやったまでだ」
「それが厭味なんだって。あの文法、パッと応用するには難しかったもん。あの先生、冴が眠たそうにしてるの見てきっと恥かかせてやりたかったんじゃないかな?」
「なんて教師だよ・・・」
「あれクラスの皆もひいたって」
「なんでひくんだよ」
「冴ってなんていうか負けず嫌いでしょ?」
「そうか?」
心底意外だ、というように眉を上げて目を見開いた。自覚していないあたりがとても冴らしくて微笑ましい。
「多分ねぇ。だってさ、あの例文の応用でまさかあんな文章作るなんてさぁ。“俺はこんな授業聞かなくったって十分内容を理解してるんだぜー”って言ってるみたいだったんだけど?」
「そのつもりで書いたからな」
「なんだ、やっぱり厭味じゃないか」
「違う、皮肉を込めたんだ」
「ホラ、張り合ってきた。負けず嫌いな証拠」
冴はナルホド、と言うような顔をして口をつぐんだ。
「自分には結構完璧を求める癖に、人に対してはどうでもいい的な?なんていうか、他人に対するハードルは低いっていうのかな・・・。まぁ、悪く言えば見下してる感が否めないよね。よく言えばある意味寛大だ」
「なんだよ急に。人の事観察し出して・・・気持ち悪い」
冴は意外にも嫌な顔ひとつせずに、むしろ楽しそうに言った。それを見て士は正直驚く。最近冴は千笑に対してだけでなく、自分に対しても柔らかな表情を向けるようになったと感じたからだ。以前からわりと友好関係にはあったが、こんな風に優しい顔をしている冴と放課後に話し込んだ事などなかった。いつもどこか気だるげでやる気がない、でもどこか憎めないのが冴だった。今こうして接している姿を周りの人間が見れば、冴がものすごくイイ奴に見えるだろう。もちろんイイ奴に違いはないのだが、“難有り”な人間が冴だ。とっつきにくく、人との交流も感情表現も下手で天の邪鬼だった冴が、ごく一部の人間に対してだけではあるがとても親しみやすい人間になった。
「冴は、・・・変わった」
「ん?」
「なんか、普通に人間っぽい」
「お前オレを一体なんだと思ってる・・・」
呆れたように、けれどどこかに優しさを浮かべて冴が笑う。
―やっぱり、変わった。すごく変わった。愛って偉大だ・・・。
「お前も・・・変わったな」
「え?」
「前はそんな風に、周りの人間を観察したりしなかっただろ。だから、・・・変わったな」
言うと机の脇に掛けてあった鞄を取り上げ、教室の後ろのドアに向かう。ドアのレールをカツンと踏み鳴らしたところで振り返った。
「今日、部活の後ミーティングあるから。ちょっと遅くなるわ。20時は過ぎないと思うけど」