千夜の夢
25.愛
ただそこに立っているだけで、圧倒的な威圧感。射抜くような鋭い眼光と、蔑むような冷たい視線。いつもこんな目で見られれば、どれだけ鈍感な人間も気付くだろう。 ―この人は自分を忌み嫌っているんだ、と。
振り返る事は出来なかったが、どうやらリビングから士が出てきたようだ。こちらが静まり返ったことを察しての事だろう。しかし、目の前の男から目が離せなかった。ずば抜けて体格が良いというわけでもないのに、その体は大きな壁のように目の前に立ちはだかっている。肩幅ほどに両足を開きどっしりと構えた寿の存在感は、不動の大山を思わせる迫力があった。対峙しているだけで息がつまりそうな圧迫感があったが、追い打ちをかけるように冷やかな言葉を浴びせられる。
「公務でこれを外に連れ出す事はやむをえず承知したが、それ以外の私用での外出もお前は勝手に許可したそうだな?何を考えている。私の言いつけを破る事は許さん」
「母を家に閉じ込めておける権利は誰にもない。あなたにもない」
「私には責任がある」
「何の責任です?何に対する責任ですかそれは」
「万が一これの病が誰ぞやに染るなどという事になれば大問題だ」
「これだそれだなんて呼ばないで下さい。まるで物みたいに」
「・・・士、今日のお前はおかしい。少し頭を冷やせ」
「おかしくない。俺は冷静だし至って正常です」
そこで士はキッチリと締められていたネクタイを緩め、物憂げな瞳を伏せて小さなため息を漏らした。淡々と交わされていた言葉が途切れ、寿はにわかに身を震わせたかと思うと声を張った。その波紋が広がる様に千笑の肩も大きく震えた。
「なぜ分らんのだ!これを連れまわして恥をかくのはお前自身だ!どんなにお前が上手く取り繕おうと、これは我が家のお荷物に過ぎん!!」
―悪いけどもう限界だぞオレは・・・。このクソ爺一発殴ってやらなきゃ気が済まない。
冴が一歩踏み出そうとしたその刹那、激しい衝突音が鳴り響き廊下はしんと静まり返った。そこには祖父の胸倉を掴み壁に叩きつけた、鬼のような形相の士が居た。束の間の沈黙は怒声に塗り替えられる。
「・・・ふざけんなよ!!!あんたにこの人の何が分かるッ!!人を見下してばかりのあんたにッこの人の素晴らしさが分かるもんかッ!!何も知らないくせに、知ったような事言うな!!あんたなんかに・・・ッ」
感情のままに喚き散らす士の勢いを折る様な鋭い叱声が飛んだ。
「士!!」
そう叫んだのは・・・。
―・・・千笑さんだ。
「その手を離しなさい。あなたのお爺様ですよ」
普段の穏やかさからは到底想像出来ないほどの鋭さを秘めた瞳で真っ直ぐに息子の士を見据えている。俯いたまましばらく動かなかった士だったが、ゆっくりと手を下ろし辛うじて聞こえる程度の声を漏らした。
「申し訳ありません、でした」
言うや否や周りには目もくれずに自室の方へさっさと消えていった。残された千笑は寿に頭を下げた。
「お義父様、申し訳ありませんでした。今日のあの子はどうかしていたんです。許して下さい」
そう言って深々と頭を垂れる。
胸が、軋んだ。
千笑の肩が、小刻みに震えている事に気づいてしまったから。凛と澄んだ声の影に潜む震えに気づいてしまったから。冴は何も言えなかった。もう少しで手が出るところだったのは間違いなかったが、その先はきっと言葉が出なかったんじゃないかと思った。士のようにハッキリと胸のうちを曝け出して愛する人を守るために叫ぶ事が出来ただろうか。士のように形振り構わず愛する人の為だけに、その身を挺する事が出来ただろうか。きっとそうしたと信じたかったが、冴にはいまひとつ自信が持てなかった。それは自分が部外者である引け目だとか、まだ出会って間もない間柄であるとか、そんなくだらない事が邪魔していたからだ。どんなに想っていても、その場に立った時何も起こす事が出来なければ意味がないんじゃないか。胸にそんな事が渦巻いて、気分が悪くなった。寿は眉間に皺を寄せ千笑を一瞥し、何も言わずに踵を返した。そしてまっすぐに正面の屋敷の方へ消えていった。その姿を静かに見送ると、千笑は冴に向き直りほんの一瞬はにかむようにして笑った。冴はそれを受けて少しだけ苦く微笑み、千笑の背をそっと押した。そのままゆっくりと歩き、士の部屋の前で立ち止まる。大きく開け放たれたままの部屋のドアの向こうには、陽が射しこむ大きな窓に向いてベッドに座り項垂れている士が居た。逆光の中に居る士は冴達が近付いた気配に見向きもせず、古ぼけた絵本をめくっていた。一枚一枚ゆっくりページを送り続ける。千笑がそっと近寄って、後ろからぎゅっと抱き寄せて言った。
「士さん、・・・ありがとう」
士の手がページをめくるのを止め、回された千笑の腕をそっと掴んだ。
部屋の中は明るかったけど、2人の表情は後ろからではわからなかった。だからあの時、士が泣いていたかどうかはわからない。千笑さんが笑っていたかどうかもわからない。ただはっきりと見て取れたのは、2人の大きな愛だけだ。