千夜の夢
24.早積みされた幸福は何処へ
台無しにしてくれたのは俺の祖父。
例え相手が血を分けた祖父であっても、あの人を傷つける者は誰一人として許さない。絶対に許せるはずがない。
今時ダンスパーティーなんてものがあるのかって、そりゃあある。
世にも楽しく滑稽な集い。贅をつくした会場に料理、そして装飾過多な貴婦人達。何もかも目を背けたくなるようなけばけばしさだが、一つだけいい事もある。ダンス自体は楽しいものだ。子供の頃からよく千笑と手を取り合ってダンスの練習をした。千笑の好きなクラシック音楽をかけ、千笑の手を取り、その笑顔を独り占めした。今晩士は取引会社の主催するダンスパーティーに招待されていた。もっとも、招待を受けていたのは父の優と妻である千笑だったのだが、例によって海外を飛び回っている父に代わって士が代理で出席する事になっていた。いつも通りの事だ。今夜のダンスパーティーに向けて、上條家では昼下がりからダンスの練習が始められていたのだが、今回は士の為の練習ではなく千笑と冴の為だった。士が踊れるようになってからは練習をする事もなくなり、またダンスパーティーなどそんなにしょっちゅうあるものではない。あっても稀に父の優が一人で出席するか、欠席をするかのどちらかだった。しかし今回は千笑の希望もあって親子で出席する事になった。無理矢理に冴の出席もとりつけて。千笑ははりきって練習に臨んでいた。ダンスホールは上條家リビング。ソファやテーブルを部屋の隅に寄せ、千笑のお気に入りの古い蓄音器を引っ張り出して来てキッチンのカウンターに置く。埃を被ったカバーをゆっくりあけ、レコードを回しそっと針をのせた。ボスボスっと独特の音を響かせた後、少し掠れた音を奏で始めた。 CDとは違う柔らかく丸みのある若干ぼやけた音が室内を巡る。千笑が目を閉じて音楽に体を預けるようにゆったりと首を揺らすと、丁度そこでインターホンが鳴った。慌ててカウンターの椅子から降りようとする千笑を制して士が前に出た。「いいよ」と笑ってドアの横の柱に設置されている操作盤の所へ行き、手早く解除キーを叩きスピーカーをオンにした。
「リビングに居るから」
そう一言だけ言って指をボタンから離し回線を切った。いくらも待たないうちにリビングのドアが開き、冴がひょっこりと顔をのぞかせた。中の様子に目を配ると、とても嫌そうな顔で言う。
「…本当にやるの?ダンスなんて」
学校で予防注射がある日の朝に小学生がするような、憂鬱さを映した顔で冴は不満を漏らした。
「やってみると結構楽しいよ?」
すでに正装に着替えた士が楽しそうにクルリと回った。更に表情を歪めた冴がドアを閉じて引き戻していく。ここは千笑の出番だ。
「千笑ちゃん。冴の事説得してきてね」
ニッコリ笑って部屋の隅に寄せたソファの上で気持ちよさそうに眠る弟の頭を撫でた。微かに身じろぎをしたがクラシックが大音量で鳴り響く中でも率が目を覚ます兆しはない。一年を通して完璧に一定の室温で管理されている上條家だったが、子供体温の率には若干暑いのかうっすらと寝汗をかいている。額に浮かんだ汗を親指で拭って頬を突いた。
―柔らかいなぁ。温かくて、まだ綺麗な肌・・・。産毛が気持ちいいや。
赤ん坊の肌が持つ不思議な魅力に翻弄されながら、士は廊下の2人を待った。微かに聞こえていた話し声がにわかに途切れる。士はドアに目を遣りしばらく待ったが、立ち上がってがらんとしたリビングを大股に横切り、廊下に出るドアをゆっくりと開いた。すると、そこには威圧的な表情を浮かべた祖父の寿が2人に睨みをきかせて立っていた。
―台無しだな。
士は心中でそう呟くと、後ろ手にリビングのドアを閉めた。
人には幸せを掴む権利がある。そしてそのチャンスも平等に与えられるべきだ。やっと芽生えた幸せの小さな芽。それさえ摘み取ってしまおうというのかあなたは・・・。