千夜の夢
21.言葉であなたに
潮風に当りすぎたヴィオラは、微妙に苦しそうな声を響かせている。彼女はとても残念そうにケースにそれをしまい、申し訳なさそうにそっと撫でた。残暑をずるずると引きずる季節は、もうすぐ彼女の誕生日を迎えようとしている。オレは彼女にヴィオラをプレゼントすると言うと、それよりも16年若返らせてくれと笑って言った。もちろんこの壁は大きいけれど、登れないほど高くはない。壊せないほど厚くはない。
そう信じてる。
暑さも和らぎ出したある金曜の放課後、冴は都心にある楽器店に訪れていた。弦楽器を専門に取り扱う店内は独特の香りを放ち、街中の喧騒もどこかに隠れてしまっている。音楽には多少精通しているがビオラの詳しい知識は殆ど皆無だったので、何を基準に探したらいいのか呆然と店内を見回していると、店主と思しき初老の男性がゆっくりと近づいてきて冴に話し掛けた。
「誰かに贈り物ですか?」
一瞬驚いた冴だったが、とりあえず頷いて言った。
「ヴィオラを」
「本来はご本人に試して頂くのが一番よろしいんですけどね」
そう言って男性は優しく微笑んだ。口元に蓄えた鬚がとてもよく似合っている。
「弾けさえすれば・・・どんなものでも構わないと・・・」
“禁固令”は解けたものの、先日騒動を起こした千笑は当分の間いきなりの“外出禁止”を喰らっていた。その禁止令を出したのはもちろん息子である士だ。しどろもどろに答えると、男性はまた満足そうに頷き笑った。
「ヴィオラ歴はどれ位の方かな?」
冴から視線を外し、ぐるりと店内を見回すように首を傾けた。
「もう、20年以上かと」
ほぉ、と顎を撫でて感心したように唸った男性は、どこか嬉しそうだった。すると奥の方へ進んでいって、立ち止まり振り返ると手招きをして再び笑った。
―神隠しにでも遭いそうな雰囲気だな。
冴は曖昧な笑みを浮かべ、それに続いた。奥は薄暗く、とても涼しかった。さらに奥が工房になっているらしく、ニスの香りが少々鼻につく。壁に掛けられたヴィオラやバイオリンが静かに冴を歓迎する。すると中でも一際明るい色のビオラに目を奪われる。
「何か、気になるものがおありですかな?」
店主が穏やかに尋ねてくると、冴はハッとして我に返る。もう一度そのビオラに目をやると、先ほどよりも目立たぬもののやはり少し明るい色合いは目を引いた。
「あの、明るい色のビオラは・・・」
「あぁ、シュッツ氏(※)のヴィオラだね」
そう言って壁のそれをヒョイと取り上げて冴の前に差し出した。
―・・・見せられてもな。よく分らないし。でも・・・、
美しいヴィオラだった。
素人目にも良い物であるのがとてもよく分かる上質さが漂っている。
「美しい木目でしょう?明るいオレンジ色のニスがとてもよく合う」
「・・・お爺さんは、ヴィオラを弾けますか?」
おもむろにそう尋ねると、男性は少々面食らった顔をして見せたが、作業用の前掛けのポケットに入った手袋をはめるとと、傍にあった弓をそっと持ち上げヴィオラにハンカチを当てがいしっかりと顎と肩に挟んだ。音色は今まで千笑が弾いていたものよりもはるかに明るい感じがした。明るくとても華やかで、聴いていると思わず頬が緩んだ。そこでふと、男性の手が止まる。
「お気に召されたようですな?」
「ぁ・・・」
少し恥ずかしくなって眉を下げ、弓とケースも一式揃えてもらうと男性に礼を言い店を出た。まるで店の中だけが異空間だったかのように、外は喧騒に満ちている。慌ただしく過ぎ去っていく人並みの中を縫うようにして上條家へと急ぎ足で向かった。
* * *
上條家についた頃にはもう日は傾きだしていた。オレンジと紫のグラデーションがかかった空は次第に紫が浸食し始め、あっと言う間に夜が来る。鍵穴のないドアの前に立ち、インターホンを鳴らすとすぐに扉が開いた。
「いらっしゃ?い♪」
エプロン姿でご機嫌な士だった。衝撃的な光景に少々固まる。
「な、何?まさか今日・・・ッお前・・・、」
「なに動揺しまくってんの。晩飯の準備してるんだよ。誕生日だから、千笑ちゃんは今日母業も主婦業もお休みなの。毎年恒例なの」
―それにしたってお前超不器用じゃん・・・美術の時間に物凄い物生み出したじゃん。それが教師にはウケてたけど料理とはまた別じゃん!
「ぉ、オレ代ろうか・・・?」
「いいんだよ。お客は主賓のお相手してて」
そう言ってキッチンへ消えていった士の背中を思い切り不安な気持ちで見送り、仕方なく千笑の部屋へ向かった。白い木製のドアに2回と1回ノックを落とす。これは冴の癖で昔から直らない。しばらく待つが、返事はない。
―寝てる?
そっと扉を開くと、案の定千笑はベッドに横になっていた。冴はテーブルセットの所まで音をたてないようにして進み、荷物をそっと床に置いて椅子に座ってテーブルの上の本を開いた。栞を抜き取ってのんびりと読み始める。千笑がこうして眠っているのは珍しいことではない。持病以外にも元々体の弱い彼女は時々こうして休みを入れながら過ごしている。本から目を上げ千笑の寝顔を窺うと、とても幸せそうに見えた。幸福な夢を見てくれているといい、とそんな事を思って再び視線を戻す。1時間程経ったところで、急に千笑がガバリと勢い良く飛び起きた。驚いて読んでいたページを掴み損ねて閉じてしまう。
「・・・急に起き上がったら良くないよ?」
いつもなら覚醒するまでに長い時間を要するが、今日はばっちり目を見開いて硬直している。
「今何時ですか?」
「まずおはようでしょ」
「何時ですか?!」
仕方なく腕時計に目を落す。この部屋には時計がないからだ。
「18時23分」
そして再び固まる。なにがどうしたことかと冴は千笑の脇に移動して座った。見ると今にも泣きそうな顔で拳を握りしめている。
「どうしたの?」
「さ・・・、」
「“さ”?」
「31歳になってる・・・」
「え・・・」
要するに、正確に生まれた時間を過ぎてしまったらしい。女性は特にそんな些細な事に無駄にこだわりをもつものだ。
「あぁッあとほんの10分・・・ッ!起きていようと思ったのに!」
冴には千笑が大げさに騒ぐ理由が皆目見当もつかなかったが、女性にとって1歳年をとるという事はそれほど大事なのかな、とぼんやり考えた。
「あの、そんなに気にすることないんじゃない?」
「ッ気にします!」
―寝起きの癖に元気だな。
「これで少しの間、年の差が17歳に!」
「・・・そ、それだけ?」
「だけって?!だけじゃないですよッ17歳差ですよ?!」
―ちょ、とりあえず落ち着いてくれないかなぁ。
「あの、肩書き上17歳差になったけど・・・本来の差は何も変わってないんだよ?」
「それは分ってますけど・・・ん??」
どうやら消化しきれない想いを抱えているようだ。それを見かねてか、考えるより先に言葉がでる。
「歳はどんなに離れてたっていいよ。あなたの心さえ、離れていかなければね」
「ぇ、」
言ってからそんな自分に驚き、激しく後悔が襲った。