千夜の夢
そうですね、とそれでも楽しそうに笑っている千笑を見ているだけで士の心はこれ以上ないほど満たされた。
―あぁ、抱きしめたくて堪らないよ。なりふりかまわず、きつくきつく・・・。そして最後には優しくキスしてまた抱きしめて・・・。そしたらあなたとはさよならだ。もうこん朝は来ない。そんなのまっぴらごめんこうむる。この場所は俺のモノだ。あなたの人生か、はたまた俺の人生が終えるその時まで―。
「紅茶を淹れましょうか?」
士の焦がれるような視線に気づきもせずに、にこりと笑って立ち上がった。それをわざとらしくないように阻止する。
「いいよ。千笑ちゃんは座ってて。俺がやる」
「はい・・・?」
再び腰を下ろしたものの、一向に動き出さない息子を不思議そうにジロジロみている。
―そんなに見ないでよ。まだちょっと早いんだよ。わざわざ紅茶なんて入れなくても、もうちょっと待てば誰が淹れるより美味いコーヒーが飲めるんだってば。
そのままずっと座っているわけにもいかないので、立ち上がり抱いていた率を千笑に預けた。待ってて、と言い残し士はリビングを出て玄関に向かう。ロックを解除してエントランスの方を覗き込むと、ちょうどゲートをくぐって来る冴が見えた。
「遅いよ」
まだこちらに気づいていなかった冴が微かにビクッと体を震わす。
「ぉ、遅いって・・・十分早いだろ・・・。なにやってんの」
驚いた顔を徐々に緩め、不審そうにドアから身を乗り出した士を見る。
「いいから。リビング行って」
「?」
どこか不満気にしつつも言われるままに家に上がり、正面のリビングへと向かう。士はソレを離れたところでニヤニヤしながら見守っている。一度だけ冴は振り返って、薄暗い廊下の壁にもたれ掛かっている士を一瞥しドアを開けた。
「・・・あの、おはよう」
まだ少し眠そうな冴の声がぼんやり聞こえたかと思うと、千笑の悲鳴にも似た抗議の声が廊下までハッキリと響いた。
あなたはすごく変わったね。
それは親友のお陰なのか、親友のせいなのか。以前のあなたなら俺に向かって「裏切り者ー!!」なんて叫んだりしなかった。ねぇ、こんな風に穏やかな日常を送っていこうよ。そしてまた「おはよう」が言えるなら、長い夜もなんとか過ごしていけるから―。