千夜の夢
20.おはよう
思ったより、落ち着いていられた。
何より冴を信頼していたし、母さんの姿を見たせいもあると思うんだけど、不思議なほど穏やかな気持ちだった。それは、あんな風にあなたが幸福な顔を見せたから・・・俺の居ない所でも。例えようのないほどむしゃくしゃして、自分でも意外なほど嬉しい事だったって、そう思えたのは俺が少しでもあなたのいい息子に徹していることが出来てるってことなのかな?俺はこれから、あなたに何をしてあげられる?
千笑の大捜索から一夜明け、また何事もなかったように窓の外にはジリジリとその身を焦がす蝉達が生命の鳴き声を高らかと響かせる一日が始まる。また変わりない朝をいつも通り迎えられる喜びは、昨日までに増して更に大きなものになった。休日は毎朝7時に千笑を起こしに行くのが日課の士だったが、今朝は珍しく士よりも先に目を覚ましたらしい千笑をリビングに見つけドアを開いた。
―まだ6時半だって言うのに・・・もう着替えてる。
「千笑ちゃん、おはよう?」
カウンターに突っ伏して動かない千笑に挨拶を投げかける、が反応が鈍い。
「・・・眠いの?」
千笑の肩にそっと触れゆっくりと覗き込む、と悲鳴に近い声が千笑から飛び出す。
「ぃひゃッ?!」
―?!
驚いた士は軽く飛退き、目をまん丸にして奇声を発した千笑を見る。
「な、何事?」
まだ動き出さない千笑を不審に思いながらまじまじみると、剥き出しの肩から手首まで真っ赤になっている。
―・・・あぁ、そうか。
士はカウンターの中へ入り、キャビネットからタオルを取り出すと、濡らして軽く絞り千笑の腕にそっと当てた。一瞬ビクッと体を震わせたが、先ほどのような奇声は上がらなかった。
「日焼けなんて初めての経験なんだ?」
千笑はやっと真っ赤な顔を上げ、恨めしそうな目に涙をイッパイ溜めて言った。
「な、何なんですかこれは・・・。すごいヒリヒリします。ちょっと服が擦れるだけで肌が千切れそうなんですが・・・」
初めての日焼けがここまで酷い状態なのは、きっと千笑にとって大きなダメージだったに違いないだろう。
「真夏の炎天下に陽を遮るものがない海なんかに長時間居たんだから・・・当然の結果だよ。それに、これは可愛い息子に心配かけた罰だよね♪」
そう言ってにっこりと微笑みタオルを裏返して反対の腕も包んだ。意地悪な笑顔とは裏腹に、包む手はやんわりと丁寧に動かす。
「こんなのってあんまりです。他の罰ならどんな事でも受けますから、許して下さいぃ」
半泣きで嘆く千笑をよそに、士は楽しそうにずっと笑っていた。
「許してと言われてもな。俺が千笑ちゃんにこんな仕打ちしてるわけじゃないんだよ?」
立ち上がってもう一度タオルを冷たい水にさらした。
―・・・一枚じゃ足りないな。
もう一枚タオルを出し、同じように緩く絞って両手に構えた。
「千笑ちゃんこっち向いて」
「?」
振り返った千笑の頬を両側から挟む。
「!!ッびっくりした・・・」
「なんとしても、顔の赤みだけは先に抑えなきゃね?」
ニッコリ微笑んで楽しそうにしている士を、千笑は不思議そうに見ている。
「顔・・・?」
まだよくわからないといったままの千笑の顔をやや強くぎゅっと潰した。
「冴。今日も来るんでしょ?」
士が言うが早いか、千笑は勢いよく立ちあがり今まで腰をおろしていたスツールを盛大に倒した。
「そうでした!!こんな顔見せられません!」
慌てて駆け出し、あっという間にどこかへ行ってしまった。くすくすと楽しそうにそれを見送り、ポケットから携帯を取り出しリダイヤルを開く。
―最近リダイヤルからコイツが消える事がなくなってきたな・・・。
断続的な機械音を受け流しながら、千笑が倒した―おそらくそれにも気づいていないであろう―スツールを元に戻した。そこでようやく、不機嫌な声のお出ましだ。
<―・・・何度も同じ事言わせるなよ。今を何時だと思ってんだ―>
予想通りのセリフをご丁寧に言ってくれる。士はどんどん楽しくて仕方がなくなってきていた。
「6時40分だね。今日もいい天気だ♪」
<士・・・お前の両親は一体どんな教育をお前に施してきたんだ・・・>
「何、我が家のゆとり教育にケチ付ける気?」
<いや、ソレゆとり教育じゃなくてただの・・・、>
「四の五の言わずに今すぐ来いってば」
<だから・・・こんな時間に人ん家に行くのは非常識なんだよ。そもそもこんな時間に携帯を鳴らすお前が一番非常識極まりないんだよ>
「大丈夫。冴の日常自体が非常識そのものだから」
<お前に言われたくない!>
「とにかく早くおいでって。どうせココには俺達親子3人しかいないんだし何も遠慮する必要はないでしょ。早くしないと千笑ちゃんの慌てふためくなんとも可愛らし?い姿が拝めなくなっちゃうよ?」
そこで束の間の沈黙が流れる。
―考えてる考えてる。
士はニヤニヤしてもうひと押しだな、と顎に手をあて考える。
「見逃しちゃうの?貴重だよ?もったいないよ?」
またしばらく間をおいて、微かに呻き声がしたかと思うと大きなため息が少し遠くで聞こえた。
<お前のお陰でオレの人生は狂いっぱなしだ>
言うや否や通話が途切れ、士は体を曲げて腹を抱えるようにしばらく笑い明かした。文句を言いながら身支度をする冴の姿が目に浮かぶようだった。
―俺思うんだけど、母さんに負けず劣らず冴の事も愛しちゃってない?
妙な思いつきに頭を掻きながら、千笑の後を追うべく廊下に出た。
すると足元でごそごそ動く小さな影が視界に入った。
「ぉおい!率ぅ・・・ベッド抜け出してきちゃったの?落ちて怪我しちゃったらどぉすんだよぉ??」
当の弟は何事もなくヘラッと幸せな笑みを浮かべて兄の足にしがみ付いている。
「だだ?ッ!」
―ダッコですか。
士は腰を曲げ弟を高く抱き上げた。
「これでいいですかぁ!お坊ちゃま?♪」
楽しそうに甲高い笑い声を上げる弟を揺さ振りながらあやしていると、千笑がマスクをして部屋に戻ってきた。
「部屋に居ないと思ったらこんな所に居たんですか率さん!」
―そう、母は2歳の息子にも敬語。
「顔冷やすのは諦めたの?」
「木下さんが無理になにかするよりそのままにしておけと・・・」
どこか不満げにぶつぶつ呟く。
「じゃあ悪足掻きはやめて、座ってゆっくりしようよ。まだ朝食には早いし」
率を抱えたままリビングに戻り、ソファに深々と腰を沈めた。
やはりまだ眠いのか、腕の中の弟は指をくわえて船を漕ぎ出した。
「あぁ、これ癖になっちゃってるな。早めに矯正しなくちゃね」
そう言いながらそっと指を口から離すと千笑がふわふわと笑った。
「なに?」
それに気づいた士はすかさず尋ねる。
「いえ、やっぱり兄弟なんですね。士さんもソレ、やってたんですよ」
「え、そうなの?」
―うわ、初めて知ったよ。冴が居なくてよかった。
「ほんの短い間でしたけど。私が指を口から離してもすぐくわえちゃって、面白かったです」
「チョット、母親として面白がるところじゃないでしょ」