千夜の夢
19.勝手な人
オレはこのままずーっと、ヴィオラを弾く千笑さんを見て居たかった。
日が沈んで、夜が来て、また朝日が昇ってもずっとずっと、あの穏やかで幸せそうな顔を見ていられたらきっと・・・オレも―。
消耗しきった体に鞭打ってなんとか動かし続け、ようやく日も傾いてきた頃になって、千笑の奏でるヴィオラの音が冴の耳に微かに聞こえてきた。
―やべ・・・幻聴?
暑さで朦朧としていた冴は汗をぬぐい立ち止まった。ふと見渡すと向こう側に夕日の沈みかけた水平線が見えた。
「もう、こんな所まで・・・」
ボソッと吐き出した言葉を風に紛らわせ、再び海岸に向かって足を動かした。
―正直もう、ぶっ倒れそうなんだけどな・・・極限ってなかなか超えないもんだな。
ボーっとしたまま危なげに車道を渡ると、また風に紛れてヴィオラの音が響いた。ヴァイオリンより少し低い、そしてちょっと遅れて引き出すような溜めを含んだ奏法・・・。
「千笑さんッ?!」
前から海水浴を終えて引き揚げてくる若者の集団が押し寄せてくる。その十数名の塊に向かって怯むことなく突っ込んでいく。すみません、通して、となんとかイラつきを抑えて言いながら、体をよじって前に進んだ。後ろでは冴を非難する声がボソボソと聞こえたがそんなもの今は構っていられない。その集団をやっと抜け、前のめりに2,3歩よろつくと、そっと視線を上げた先に海に向いてビオラを弾く千笑を15mほど先に見つけた。目を閉じて真っ直ぐと風を受け止めながら『別れの曲』を弾いている。
―なんで別れの曲なの・・・。心配したよ。ずっと走り回って探したんだよ。オレも士もどんな気持ちで居たと思ってるの。それよりなんで、―そんな幸せそうな顔をしてるの?
本当ならすぐに連れ戻してこってり説教でもしてやりたいところだったが、冴にはそんな気がまるで起こらなかった。その穏やかな海のように優しい旋律も、風に揺れる柔らかな髪も、夕日を受けてキラキラと光る水面も全て、冴は見逃さないようしっかりと真っ直ぐに見ていた。うっとうしい風も、鼻につく潮の香りも、どこかに消し飛んでいってしまう。どの位そうしていたのか分からなかったが、後ろで息を切らせて駆け寄ってくる気配を感じた。それは冴の後ろで立ち止まって、荒くなった呼吸を整える。そして一瞬ハッとしたような息遣いが聞こえたかと思うと、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように静まり返ってしまった。
―あぁ、お前もそうだよな。あんな千笑さんの顔、お前も見た事なかったんだな。
しばらく彼女の生み出すメロディと、彼女の表情に全ての神経を委ねたまま潮風に体をさらし続けた。そして冴は無意識のうちに口を開いた。
「士ぁ・・・オレ、おかしいかな」
ぼんやりした声はかろうじて後ろに居る士に届く。
「出来れば、このままずっと・・・」
そこで言葉は途切れ、続きは何も出てこない。それでも士は数秒の空白をおいて「うん」と言ってまた黙った。すると、士はもと来た道を引き返していってしまう。
「士?どこ行くんだ、せっかく見つけたのに・・・」
ほんの少し振り返って、士の姿を視界に入れた。
「木下さんに電話して、迎えを呼んでおく。駅前で待ってるから・・・」
そう言って弱々しく微笑んだ士は、背中を向けて行ってしまおうとした。
「待って、お前・・・」
冴が何か言おうとすると、それを遮って士が背を向けたまま言った。
「大丈夫。全部お前に任せるって、俺・・・決めたんだからさ」
それだけ言って振り返ることなく士は行ってしまった。その背中を見送りながら、冴はずっとこうしてばかり居られないという気持ちになり、千笑の方へゆっくりと近づいていった。あと2,3歩という所で立ち止まると、ピタリとヴィオラの音が止んだ。千笑は驚くでもなく、ゆっくりと弓を下ろして瞳を開けた。
「・・・フレデリク・フランチシェク・ショパン作曲、練習曲第3番・・・『別れの曲』―」
そう言って微かな笑みを零し、足元に置いてあったケースにヴィオラをしまった。
「ピアノの為の曲ですから、冴の方がずっと詳しいでしょうね」
そしてしゃがみ込んだまま海を見て、また瞳を閉じてしまう。冴はまだ何も聞かずに千笑がまた話し出すのを待っていた。
「―ごめんなさい…。勝手に外に出てしまって。心配しましたよね?」
横で棒立ちになっている冴を見上げ、悲しげに眉を寄せた。
「・・・どうして海でヴィオラを弾いてたの?」
冴は思いのほか優しい声音でそう尋ねると、千笑に習って横にしゃがんだ。
「・・・私がなんでヴィオラを弾くようになったか、話した事ありましたか?」
質問とはまるで関係のない言葉が返ってきたが、冴は「いいや」と小さく返して先を促した。
「私、最初はヴァイオリンを弾いていたんですよ。まだ3,4歳位だったと思うんですけど・・・父はオーケストラが大好きで、まだ小さな私を連れてよくコンサートへ行っては大興奮で・・・。その父に勧められるままヴァイオリンを習い始めました」
足元の砂を弄びながら、どこか懐かしむように夕日に向かって微笑んだ。
「父が喜んでくれるから、私も一生懸命練習しました。でも・・・ある日から酷い咳が長引いて、最初はただの風邪かと思っていたんですが・・・病院で検査してもらったら、結核だと診断されました。6歳の時でした」
冴は砂を弄んでいた千笑の手を砂ごと包み込んで握った。
千笑は少しだけ冴の方に首を傾け、一瞬悲しそうな瞳を見せて笑うとそっと握り返した。
「私は、妹と離されて・・・結婚して上條家に入るまで、アメリカの片田舎で母と暮らしました。その母も、月に一度3日間だけ日本からやってくるだけでした。私の身の回りのお世話をして下さっていたのが、木下夫妻です」
「・・・木下さんは、元々千笑さんの家に仕えていた人だったんだ・・・?」
冴が意外そうに眉を上げて尋ねると、千笑はニッコリと笑って頷いた。木下夫妻は60歳をとうに過ぎたデコボコ老夫婦だった。ノッポで少々落ち着きの無い熱血人の木下氏と、小柄でのんびりとした口調で話すしっかり者の木下婦人。夫婦そろってどこまでも人がよく、家庭的で暖かい人柄が周りの人間に好かれている。上條家にいると「士坊ちゃまー!!」と叫び走り回っている木下氏をよく見受けた。追われている士の方はというと、楽しそうに逃げ回っては上手く撒きおおせていた。あの堅物の爺さんより余程祖父と孫のような関係に近いように思われた。そんな事をぼんやり考えていると、再び千笑が話し出した。