千夜の夢
微かな潮風を、目を閉じて感じ取る。すると、微かに波音が聞こえた気がした。ざわついていた周辺に、より一層の喧騒が舞い込んでくる。瞳をゆっくりと開くと、どうやら海帰りの学生たちのようだ。日に焼けた肌と、半乾きの髪を振り乱しながらワイワイとこちら側へ向かってくる。その談笑が、否応無しに士の耳にも飛び込んできた。「疲れたぁ?!」「何食ってく?」と、はしゃいでいる団体の後方で、カップルと思しき2人組の会話が士の気を引く。
「あの綺麗な女の人、ヴァイオリン上手だったよね」
―ヴァイオリン?・・・て、まさか・・・。
クラシックに疎い人ならば、ヴァイオリンとヴィオラの区別はつかないはずだ。士は考えるより先に、カップルの前に割って入った。
「あのっすみません!!」
突然目の前に立ちふさがった見ず知らずの少年に、当然2人は驚いていた。背後では仲間の数名も立ち止まって士を見ている気配がしたが、お構い無しに続けた。
「その女の人って、髪の長い真ん中分けの・・・白っぽいワンピースを着た人じゃなかったですか?!」
朝千笑が着ていた服を思い出しながら迫った。目の前の男女は戸惑いつつも顔を見合わせながら答える。
「あぁ、うん。確かそんなような・・・」
男が曖昧に言葉を濁した。
「どこで見ましたか?!」
士の勢いに押されて男は半歩後ろに下がってしまう。すると隣りに居た女性の方が遠慮がちに言った。
「海岸のずっと奥の岩場の方だよ。私達が帰る時も弾いてたから、まだ居ると思うけど・・・」
女性が指差した先にガバリと向き直ると、「ありがとう!」と口早に礼を言って走り出す。背後で「びっくりしたねー」と再びざわつき始めた団体の声がかろうじて聞こえた。車通りの激しい大通りに差し掛かり、目前を通り過ぎていく車の列を何度も見送って、ようやく海側に渡り、海岸へ降りる階段の手すりから身を乗り出して岩場の方を見た。モノクロだった世界から一転して、オレンジに滲む夕陽の中でヴィオラを奏でる千笑の姿が飛び込んでくる。そして、ちょうど士と千笑との間で、佇んでいる冴の背中も。
もし、冴より先に母さんを見つけていたら、俺は真っ先に駆け寄って抱きしめていたと思う。でも、冴はその場を動き出さずにただじっと母さんを見ていて、そこで初めて気付く。
―なんて穏やかな顔だろう。
あんな母さんの顔、あの牢獄の中じゃ見られなかった・・・。灯台元暮らしとはまったくこの事だ・・・。近づきすぎて見えなかったなんて、話にもならないじゃないか。
※耐性・・・一旦薬の投与を止めた事によって、薬に対する耐性がついてしまう事。今まで投与していた薬が効きにくくなってしまう。また、薬の耐性がついた菌を耐性菌と呼び、耐性菌結核になると薬での治療が困難になる。