千夜の夢
「・・・そして、私が結核に感染して以来、父は私に興味を示さなくなってしまいました。ヴァイオリンをどんなに練習しても、もう発表会にも出してもらえない。どんなに努力しても、父は私に会いに来てくれない。わたしはヴァイオリンに歓びを見出せなくなってしまいました。―そんな私を見かねてか、母は私に違う楽器をやってみてはどうかと勧めたんです。もちろん、気が乗らなかった・・・。他の楽器を試してみたところで、父はもう私に会いには来てくれない・・・そう思いました。それでも熱心にパンフレットを持ってくる母に、私はとうとう折れて楽器屋に行く事にしたんです。音楽にはまるで疎かった母でしたが、本当に一生懸命になってくれたんです」
そこで冴はふと、千笑と初めて会った晩の事を思い出した。彼女は冴がピアノを弾くと知ると、一緒に演奏しようと持ちかけて持って来ていたビオラを取り出した。結局、弓を忘れてきていて一緒に演奏は出来なかったのだが、その時言っていた言葉を思い出した。
―“母がクラシックが好きだったもので”。
本当にクラシックが好きだったのは、母親ではなく父親だったのだ。あの時何事も無く言っているように聞こえたが、千笑はそんな嘘を何気なく言えるほどに悲しみに慣れてしまっていたのだ。
「そこで、ヴィオラを初めて弾かせて貰ったんです。ヴァイオリンよりも低く調弦された心地よい音がとても新鮮でしたが、どうしても上手く弾けないんです。ヴァイオリンと奏法はほとんど変わらないのに、私が今まで聴いてきたヴィオラ奏者が奏でる音とは似ても似つきませんでした。店の方に聞けば、“本当にヴィオラらしい音を出せるのは、本当のヴィオラ奏者だけ”なんだそうです。そこで、私はどうしてもこの楽器の本当の音を引き出したくなって、気づいたときにはヴィオラに夢中になっていました。・・・そこで初めて、自分自身が楽しんで弾いている事に気づいて・・・それから私は、今に至るまでずっとヴィオラを弾いてきました」
嬉しそうに頬を緩める横顔が、夕日に透かされて幼い少女のように見えた。
「ヴィオラを弾くのは、千笑さんが千笑さんで居るため?」
そう言うと、千笑は満足そうに頷いて繋いでいた手をそっと解いた。
「私は、自分自身を見直そうと思ったんです。周りに私を知る人が誰も居ないところで、一人きりになってヴィオラを弾いて・・・たくさん考えました」
そうしてゆっくりと立ち上がり、冴の正面に立ってはっきりと言った。
「これ以上、私達は一緒に居ないほうがいい。そう決めました」
冴は別に驚くでもなく、千笑の眼を真っ直ぐに見ていた。
その顔は逆光でほとんど見えなかったが、声は少しだけ震えていた。
「・・・それで?」
「え?」
びっくりしたように千笑の肩が大きく揺れる。
「“一緒に居ないほうがいい”・・・それでどうするの?もう会うのをやめて、別々に過ごしていれば、千笑さんは気が楽?オレに結核が染る心配がなくなるから、それで幸せ?」
キツイ口調だとは思ったが、冴は自分を抑えられずにそのまま続ける。
「何逃げてんだ。あの日言った事は嘘だったの?オレに一緒に居てくれって言ったでしょ?その時点でオレに感染する可能性は大きく跳ね上がったんだ。そんな事、分かってたはずだよ。それはオレだって承知の上で一緒に居るって言ったんだ。千笑さんは考えなかった?」
いつもと違う冴の口調に戸惑っていた千笑だったが、なんとか蛮勇を奮って拳を握り締め言った。
「考えないはずないじゃないですか・・・。私は子供の頃からずっと、そうやって生きてきたんです。誰かに自分の病が染るのを恐れながら、それでも家族と呼べる人たちと共に生きてきたんですから」
「それで、実際に士が結核に感染した事を知って怖気づいたんだ?」
「ッ!!」
千笑は普段見せる事のない険しい表情を冴に向けた。感情の波が高く押し寄せるのとは裏腹に、言葉が出てこない。
「なんで士が隠してたか分かる?」
冴は砂を払いながら立ち上がり、千笑の手をもう一度取った。
「千笑さんに、こんな風に自分ばっか責めて悲しんだりして欲しくなかったからだ!!」
急に大声を張った冴に驚いて、千笑はそのまま固まる。
それは千笑に対してはもちろん、士や他の人間に対しても見せる事のなかった顔だった。
「分かんないかもしれないよ・・・もちろん、千笑さんの気持ちを全部理解しようとしてもしきれるもんじゃない。それでも、オレ達に言わせてもらえば・・・傍で笑ってて欲しい。そうすれば、それだけで・・・士は幸せなはずなんだ・・・。万が一これから先、士の結核が発症しても、オレが感染しようとも・・・傍に居たいと思うんだよ」
涙を必死で堪え、喉の震えを抑えながら冴はギュッと目を瞑って俯いた。
「辛いのはあなただけじゃないんだよ!!オレはそれを承知で傍に居るって言ってんだ!!なんで分かってくれない?!なんでオレを信じて傍に置いてくれないんだよッ!!」
そこでずっと震えていた千笑がとうとう爆発する。
「耐えられないんです!あなた達の・・・あなたの重荷になるのがッ!お願いだから・・・そうなってしまう前に・・・私から離れて・・・」
最後、堪えきれなくなって涙を流しながら消えるように言った。風が、千笑の頬に伝う涙を弾き飛ばした。
「重荷・・・?そんなの当たり前だ!オレにとって、あなたの命より重いものなんて無い!!その重みがないとオレ・・・立っていられないよ・・・。―なんで簡単に諦めようとするの・・・。千笑さんには、オレとの未来なんて見えてないの?!」
そこで千笑は、負けじと大声を張った。
「見えてますッ!!どうなるかなんて!!私はいずれどんどん弱っていって、そして数年もしないうちに居なくなって・・・そしたらあなたは辛い想いをする・・・ッ長く一緒に居れば居るほど、それは増すばかりじゃないですか!!そんな姿、傍で見ている事なんて出来ません!!―だったらッ、」
涙を流しながら喚き散らす千笑の手をより一層強く握り締め、少しだけ自分の方に引き寄せた。
「許さないッ!!!」
一層大きな声を張り上げた冴にビクッと体を震わせ、千笑は言葉を失う。
「あなたの苦しみも、痛みも、悲しみも全部オレのものだ!!オレを捨てるって言うんなら、その前にまずその感情を全部捨ててよッあなたを苦しめるものが何一つなくなったなら!!・・・オレはあなたと、離れたっていい・・・・・・」
冴の目からも涙がハラハラとこぼれる。
「あなたが言ったんだ・・・傍に居てくれって・・・、なんで今更離れようとするの・・・。なんで簡単に逃げちゃうんだよ・・・」
冴は疲れ切ったように肩を落とし、下を向いたまま泣き続けた。
「―私・・・、あなたの存在を見くびっていましたね・・・」
「―・・・ぇ、」
涙でまみれた顔をゆっくりと上げ、冴は情けない声を上げる。
「私、あなたに対して・・・こんなにも愛情を抱いていたなんて・・・恐ろしいほど、あなたの事を・・・」
そこで冴はやっと表情を崩して笑った。
「本当、今更・・・。そんなのオレ、とっくに知ってたよ・・・ッ」