千夜の夢
18.遠くから
あなたは特別な音をしている。
少なくとも俺にはそう響くから、分かる。だからきっと、どこに居ようが見つけられるはずなんだ。
「俺―・・・感染したんだ・・・」
そう言うと冴は、一瞬ぼんやりしたかと思うと一気に目を見開いて静止した。
「大丈夫、感染しただけで発症はしてない」
頭を振って力なく笑う。笑顔だけではないのだが、士はどうにも力の入れ方が分からなくなっていた。
「冴も、色々調べてるから知ってるよね?」
すると冴は驚いたままの表情でゆっくりと頷いた。
「・・・それ、千笑さん―知って・・・、」
「もちろん俺からは何も・・・。でも、一昨日の夜・・・見られちゃったかもしれないんだ」
「見られ・・・?」
「薬、飲んでるところ。十分気をつけてたんだけど・・・」
そう言って視線を落とし、ギリッと歯を食いしばる。自分の浅はかさに対する怒りさえ沸く。
「それで、多分・・・先生に問い質したんじゃないかな?一応先生には口止めはしておいたけど、母さんはあれで意外と頑固な人だから・・・」
千笑の意地っ張りな所を思い出し、思わず笑みを零す。
「・・・いつから?」
―さすが冴。しばらく隠していた事を見抜いている。
「・・・半年、くらい前から、かな?」
煮え切らない風に目を逸らす。自分でもまずかったと思ったが、これでも精一杯平然を装っているつもりだ。半年というのはだいぶ少なく見積もって、だ。実際はもっと前からこの状態だった。
「・・・ちゃんと効いてるのか?薬・・・」
冴にしては執拗に問い質してくる。ここは正直に答えるべきだと判断し、今度は目を見て言った。
「正直なところ効果はイマイチだよ。でも、確実に減ってはいる。耐性(※)はまだ付いてない・・・」
それ以上は言わなかった。冴も納得したのか、「そう」と言って俯いてしまった。しばらく雲の影をぼんやりと追っていると、携帯が鳴った。開いて液晶を確認すると木下氏からだった。ほんの一瞬、動きが止まる。それでも冴に不審がられる前に電話に出た。
「もしもし」
先程までの頼りなさをよそに、はっきりとした口調で応答する。そんな光景を、冴は空事でも映すような瞳で見ている。その瞳は厳しく、どこかに憐れみも感じられるが士はさほどそれに対して嫌悪感は沸かなかった。他の誰もが同じような瞳で自分を見る。でも、冴の瞳には別の色も浮かんでいた。それは親友としての瞳。冴はきっと、自責にも似た気持ちを抱いているのだと思っていた。士自身が本音と建前を使い分けなければならない立場にいる事は、決して本人が望んでそうなったわけではい。もちろん、それについて冴が気に病む必要も全くない。けれど冴は最も身近な友として、もっと上手く今の立場に置かれた自分を支える事が出来るはず、そうしなければ・・・と、どこかで苦しんでいるように見えて仕方なかった。多分それは間違いないと思っている。そしてそれは千笑にも同じ事が言えた。千笑に至っては血を分けた息子なのだから、その苦しみもひとしおだろう。
―でも、俺は・・・あなた達が傍に居てくれさえすれば・・・。
耳元の木下氏の言葉を半ば呆然とした状態で何とか聞き、用件だけ受けて通話を切った。
「ヴィオラを・・・」
携帯を持った手をブラリと下げて、ポツリと言う。
「え?」
冴が一歩士に歩み寄り、顔を覗き込んだ。
「ヴィオラ・・・なくなってるから、持って出たかもしれないって」
今度は先程よりは聞き取りやすい声で冴に向かって言った。冴は無言で頷き、すると急に士の目を隠すように片手で額を覆った。咄嗟の事で士は訳がわからなかったが、大きな手だなぁ、とぼんやり思った。
「あのな、正直・・・今は千笑さんの事が1番心配。・・・でもお前、は・・・千笑さんの事を抜きに考えて、自分の事どう思ってるんだ?」
冴の手に覆われていて、今彼がどんな顔をしているのかは分からなかったが、士の脳裏にはちょっと照れくさそうに眉間の皺を深くした冴がハッキリと見えていた。
「なんとも思ってないはずはない。お前が、―結核に感染した事実は変わらない。これからも千笑さんの傍で暮らしていく以上、発症の危険だってある。絶対不安なはずだ・・・。それはお前の千笑さんに対する愛情とは、もっと別の所にあるんだよ。―だから、それとこれとは別に考えて、お前は・・・どう思ってる?」
不思議な状況下での問いかけではあったが、冴らしいな、と士は思った。
―“面と向かって言いづらい”からって、相手の顔を隠すなんて。
それを思うと自然と笑みが零れた。
「怖い―・・・。けど、やっぱり別には考えられない・・・。怖いのは、母さんが離れていってしまう事。怖いのは、母さんが自分を責めて苦しんでしまう事。・・・怖いのは、母さんの悲しみのひとつに成り下がってしまう事―」
無表情な笑顔を貼り付けたまま、士は冴の掌の下で涙を流した。
「別に考えられないどころか、全部千笑さんの事じゃないか・・・」
そう言って小さく笑う冴の手は、涙に濡れてもなお士の目を覆ったままだった。
―冴の前だと、俺ってよく泣いちゃうな・・・。
涙が渇くまで待って、俺達は別れた。
冴と別れてから2時間程走り回って、もうおよそどこを探せばいいかも分からなくなった頃、ようやく太陽は頭上から大きく傾き、所々に木陰を作り出していた。普段室内でばかり過ごしている千笑には、この暑さはだいぶこたえるだろう。それを思うと休んでなど居られなかったが、士にとってもこの暑さの中走り回るのは辛かった。
―夏は日が長いとは言え・・・明るいうちになんとかしないと・・・。
ポケットから携帯を取り出し、着信と時間を確認した。携帯のデジタル時計が15時52分を映し出している。
―冴からも木下さんからも連絡はなし、か。
パチンと勢いよく携帯を閉じてギュッと握り締めた。真夏の今は夕方の18時頃までは明るいが、そこからは急に空は暗くなる。いかにも頼りなさげな千笑が一人夜道を歩く姿を想像してゾッとする。士は軽く頭を振って、悪い想像も振り落とす。それから再び足を動かし、人並みの中を分け入っていく。どこを見ても灰色に色を失った世界しか広がっていない。買い物袋を持った主婦と、その横でパンを持って歩く小さな子供。手を繋ぎ、店のショーウィンドウの前で足を止めて笑い合う男女。スーツの上着を抱え、額に汗を浮かべながら携帯で電話をしているサラリーマン。部活帰りの高校生達、一人カフェのテラスで雑誌を読む女子大生、犬の散歩をしている少女、茂みからこっそり顔を出した野良猫。似たような光景を何度も見ては忘れ、思い出し、もうずっと同じ時をグルグル果てしなく回っているような錯覚を覚えた時ふと、どこからか潮の匂いが風に乗ってきた。
―そうか、もう海岸沿いのすぐ傍まで来ちゃったのか・・・。