千夜の夢
17.どこまでも恋焦がれて
何一つ見逃したりしてないと思っていた。
あなたの望むものも、疎むものも全部。それはオレ達の驕りで、それ以外の何モノでもなくて・・・、ただそれが生んだこの出来事に、オレの未来は大きく左右されていったんだ。こうやって過ちを繰り返しながら、人は何かを得ていくんだろうか。出来れば間違わず、傷つけず、傷つかずに全て手に入らないものか。無理だと理解出来ても、易々と諦めきれないんだ。
だって、知ってしまったんだ。
―時間があまり残されていない事を・・・。
冴は射場を飛び出すと自室で手早く着替えを済ませ、財布と携帯だけ持ち再び物凄い勢いで家を飛び出していった。一先ず上條家を目指して走り出し、途中で士と連絡を取ろうとポケットから携帯を取り出した。開くと画面には着信1件の表示があり、それは士からのものだった。確認すると先程の電話の少し前の時間に掛かってきたものだった。そのまま通話ボタンを押して士に繋ぐ。さほど待つ事無く、士が出た。
<もしもし>
士の声は落ち着いていたが、そこには表れない焦りを冴は感じた。
「今、そっち向かってるんだけど・・・、士・・・今どこ?」
走りながら切れ切れに話す。午後一番の日差しが力強く冴を突き刺す。暑いのが苦手な冴だったが、そうも言ってられない。
<とにかく近所から探してみようと思って、公園とか一回りしてきたトコ・・・。今丁度家の前に戻る>
士が言い終わると同時に、その姿を見つける。あちらも冴の姿を確認したようで、携帯を下ろして通話を切った。上着を脱いだスーツ姿の士は、ネクタイを緩めシャツの袖を軽く捲くっている。その出で立ちのせいか、士から疲労感が漂って見えた。そばまで駆け寄って呼吸を整える。
「ッ、仕事、だったのか。千笑さん、居ないって気付いたの、・・・いつ?」
息を乱したまま話し出す。余裕なんかどこにもない。士は一瞬悲しそうな眼をして消えそうな笑顔を見せた。
「気付いたのは、帰ってすぐ。冴に電話する5分位前だよ」
まだ何か言いたげにしているように見えたので、黙って先を促した。逆に言いにくそうにしているようにも見えた。
「士?」
俯き気味の顔をそっと覗き込むと、顔色が良くなかった。
「お前、顔真っ青だぞ。具合悪いんじゃ、」
冴の言葉を遮るように、士は冴の肩に額をのせた。
「・・・最低だ。目を離しちゃいけなかったんだ・・・。母さんが自分を責める事ぐらい分かってたのに・・・ッ。向き合うのが、怖くてッ」
ズルズルと崩れていく士をなんとか支えながら、冴は困惑を隠せずにいた。出会った頃、士は本当に小柄で冴よりずっと小さかった。中1の春、ぶかぶかの制服を引きずるように歩く士がいた。以前から取引先の跡取り息子である上條士の事はもちろん知っていたが、冴の抱いていた印象とはまるでかけ離れていた。目を奪われるような力強い瞳と裏腹に、消えて無くなりそうな儚い笑顔を称えて、大きすぎる制服の袖を振り回すように弄び、嬉しそうに言っていた士の言葉を思い出す。
―“母親がね、俺は絶対大きくなるからってこんなにデカイの頼んだんだよ”。
それは見事に的中して、入学時には154cmだった士の身長は今では170cmにもなっていた。もともと背の高い方だった冴の身長を今では追い越している。憎たらしいほどにどんどん伸びていく士の身長は、今もまだ成長を続けている。
―そうだ、いつの間にかこんな・・・図体ばっかりでかくなってたんだな。
自分にしがみ付いて小さく震える士の背中を見つめながら、冴はその背を優しく撫でる。
「どうしたんだよ、士・・・、言ってみろ」
震える喉ギリギリのところで士は声を発した。
「俺―・・・」
冴は無我夢中で街中を駆け回った。
道行く人の波の中から、たった一人を探そうと必死に目を凝らす。
それでも千笑に似た人影すら見つけられない。
―当然だ、似た誰かなんて目に入るもんか・・・。オレの目に映るのは―。
あてもなく走り回リ続けて2時間ほど経った時、とうとう前後不覚に陥って両膝に手をついて立ち止まった。
「―ないょ・・・」
乱れた呼吸の合間にポツリと零す。
「・・・どこに行ったって、あなたとの、思い出なんて・・・どこにも―。どこ探したってない・・・ッ」
地面に汗が滴り落ちて、スッと染み込んでいく。汗が目に染みて痛い。頭が沸騰するように熱いし、疲労から来るダルさで膝が笑ってる。
「ちきしょ、動かねぇや・・・」
冴の顔に自嘲の笑みが浮かぶ。仕方無しに瞳を閉じて、気休めをする。目の前を真っ暗にして、先程の士の言葉を甦らせた。
―“俺―・・・感染したんだ・・・”。
士が悲しんでるのは自分が結核に感染したからではなくて、それを知った千笑さんの事。それを知ってしまった彼女がどう思うかなんて、火を見るより明らかだった。でもオレは不謹慎にも、士の立場が羨ましくもあった。