千夜の夢
プロローグ side 士
まるでそんな気配はない。
今も、数秒先も、もしかしたら明日も、俺は涙を一滴も流さないのかもしれない。こんな親不孝な息子を、あなたは大事にしてくれたのに。いつも優しく笑ってくれた。でも、もう笑わないんだね、千笑ちゃん・・・。
ううん、「母さん」。
これは俺の母で、親友の恋人だった人の話。
きっと、2人をひきあわせた事は俺の人生で一番の偉業だったに違いないと思うよ。あの日、あの時から、全ては始まったんだ・・・・。
「千笑ちゃーん、準備できた?」
なんの不思議もなく母をちゃん付けで呼ぶ中学生男子がどれ位居るのかは知らないが、士は多分希少種だ。
「待ってください士さんっ、私やっぱり社交パーティーなんて・・・」
そしてこの母親も、自分の息子に敬語を使うという極めて貴重な人物である。眉尻を情けないほど下げて涙目で必死に訴える。はたから見ればまるっきりキョウダイに見えるであろう。しかも息子の士が兄にはまる。それほど千笑は幼い顔立ちをしており、体格も小柄で、頼りのないか細い声をしている。
「あのねぇ、もう何度も言ったでしょう?今日はごく身内のパーティーなんだから、 堅苦しいのは一切抜き! お客様との挨拶も俺がするから、千笑ちゃんは横にいて 軽くお辞儀でもしてくれればいいんだから・・・」
たしなめるように言うと、千笑も観念したのかゆっくりと立ち上がる。体の弱い千笑は普段会社のイベントなどに参加することはほとんど無い。今回の出席は極めて異例・・・というか、士が無理矢理連れ出したに等しい。ここ最近の千笑の体調は安定しているし、外は寒いとはいえ移動は車で会場は暖かい。すぐに体調を崩しやすい千笑でも、これならきっと大丈夫だろう。士も色々と配慮している。
先ほど別れた親友の姿はまだ無いので、どうやら遅れているようだ。彼は時間にはルーズな方ではないはずなので、どこかで渋滞しているのかもしれない。
「士さん・・・率さんがちょっと愚図ってるみたいなので、様子を見てきます」
「あぁ、じゃあ俺は今のうちにお客様に挨拶を済ませちゃうから、ね」
「はい」
ホッとしたように頷き上の階の控え室に向かった。
「さぁて、お仕事お仕事!」
キリリと気を引き締め、来客者を一人一人丁寧に回り挨拶を交わしていく。今回、父の優は海外出張で欠席せざるを得なかった為に、今回の催しは士が全て手配、指示をこなした。全て抜かりなく手配した士に祖父の寿は大層満足気だった。士にはそれが大変忌まわしく感じてならなかった。祖父の中では仕事の出来る者が全てで、それ以外の、祖父の言葉を借りれば「利用価値の無い者」は負け犬または能無しなのである。そんな事を頭から叩き出し、再び挨拶周りに戻ると、よく見知った顔を見つける。
「遥さん」
士のほうから声をかけた。
「あぁ、士くん!ご招待ありがとう。遅れて申し訳ない・・・」
優しく微笑み歩み寄ってきたのは冴の兄、遥だ。隣には婚約者の女性がごく自然に寄り添っている。
「ようこそ、遥さん。お忙しい中お越しいただいてありがとうございます」
「いや、・・・あぁ、こちら僕の婚約者の七瀬 優陽です。婚約披露パーティーで一度?」
「えぇ、拝見しましたがお話しするのは今日が初めてです」
言って、そっと右手を差し出す。差し出された手のひらにそっと自らの右手を乗せ軽く会釈をして優陽が微笑む。士はそれを軽く持ち上げ頭を垂れてそっと放した。
「はじめまして、本日は父に代わって主事を務めます上條士と申します。 今日はどうぞ楽しんでいってください」
そつなく挨拶を述べる中学生に少々驚いた様子の優陽であったが、すぐに笑顔に戻り自分も自己紹介をした。
「七瀬 優陽と申します。宜しくお願いします、士さん」
にっこりと微笑む姿は二人ともよく似た雰囲気をかもし出している。代々宮元家は恋愛結婚の家系であるから、相思相愛の仲なのは明らかである。
「そうだ、冴の奴・・・着いたとたん急に黙り込んで・・・って言っても 普段からあんまり喋らない奴だけど」
言葉を切って苦笑する。家でも学校でも、どうやら冴のスタンスは変わらないようだ。
「ふらっとどこかへ行ってしまって。多分デッキだと思うんだけど」
心配気に遥が眉根を寄せる。この菩薩のように優しい顔立ちの青年も、千笑同様身体が弱く、病持ちで、どこか儚げな瞳をしている。そんな遥を支えるように寄り添う優陽は、優しい中にどこか力強さを感じさせる芯のある女性だな、と士は感じていた。
「遥さんは中でゆっくりしていてください、僕が探しに行きます」
仕事の時、士は一人称を変える。もう少し歳を取ればいつか僕から私と変えるだろう。
―父のように。
「ぁ、主催者である君が会場を抜けるなんて・・・」
遥が気を遣って止めに入ろうとする。
「大丈夫です。実はこの後すぐ主賓の挨拶が始まりますから、 こっそり休もうと思っていたところです。マイク音声は拾えるんで。 その為に話の長い方にわざわざお願いしました。これは内緒ですが・・・」
耳元のイヤホンに軽く手をかざし、幼さを映した瞳でニッコリと微笑んで見せた。遥は安心したように微笑み返し礼を言って会場へ足を踏み入れた。それを確認すると、士もデッキに居るであろう親友の元へ向かった。
あの日、俺は今までにないくらいワクワクしていたんだ。
分かっていたからだよ―。2人が必ず、惹かれあうって事が・・・。そう、最初から全て、分かっていた。この出会いが悲しいものになってしまうという事も、冴に辛くて重い荷物を背負わせてしまう事も、これが俺の身勝手だって事も。
それでも、この日2人を導いた事を、俺は決して後悔しない。
それも・・・どうしようもないくらい、分かってたんだ・・・・。