千夜の夢
1.仕組まれた恋
初めてあなたの姿を見た時に思った事がある。
とても口には出来なかったけれど、確かに思ったよ。
―あぁ、この世に女神はいるんだ、・・・って。
・・・笑えるだろ。
どうしても会場に入る勇気はなかった。
ずっと止まない心のざわめきの正体が、きっとここにはある。そう思うと、足が前に踏み出せなかったなんて。一体何に怯えているのか、一体何を期待しているのか、まるで掴めない。会場であるこの客船に到着するや否や、中には入らずデッキに向かい、冴は独りじっと海を見詰めていた。
さすがに12月も後半になると、沿岸とはいえ海上は凍えるように寒い。いつまでもここで海を見ていても仕方が無いのは分かっているのに、どうしてもここを動く気になれない。中に、入るのが怖いのだ。士の言葉がずっと反芻している。「期待以上、予想外の人物」の事。その「人物」との出会いによって何かが大きく変わってしまう、そんな気がしてならなかった。そのうちに船が碇を上げ始める金属音が鳴り響き船体が唸りだす。どうやら少し沖へ出るようだ。
「・・・つまり、逃げられないって事か・・・」
自嘲気味にひとつ漏らすと体を反転させ手摺りに寄りかかった。すると向こうからこちらへやってくる人影が見えてくる。真っ白なドレスを着て、肩にも白いストールを羽織っている女性だ。年齢は、若く見えるが冴より若干上にも見える。徐々に、徐々に、こちらに近づいてくるが、まだ冴の存在には気づいていないようだ。俯き気味な顔をやっと上げたのは、冴との距離が3m程に近づいた所だった。彼女の瞳が冴のそれとぶつかる。
世界が、揺れた。
いや、実際には船が動き出したのかもしれない。わからない。何がどうなったのかは分からないが、確かな事がひとつ・・・。冴はその女性に目を奪われて身動きひとつ取れないという事。
―コレだ、っ胸のザワザワが酷くなっていく・・・。一体なんなんだ?
居心地が悪いような、それでいてどこか心地いい。熱にうなされている時のように身体が、頭がだるく浮遊している。なのに彼女に集中する意識だけは奇妙なほどクリアで、何も見逃す気がしない。
「あの・・・?」
目の前の女性が困惑気味に声を漏らした。冴はハッと我に返る。左手がしっかりと彼女の腕を掴んでいた。
「っぁ・・・」
慌てて腕を放し一歩後すざる。妙な沈黙がたっぷりと空間を塗りつぶすと、不意に誰かの声がする。
「千笑ちゃん!!」
慌てて駆け寄ってくる少年には見覚えがある。士だ・・・。
「なんでこんな所に!風邪引いたら大変だよ!!」
着ていたスーツの上着を脱いで「千笑」と呼んだ女性の肩に被せる。
「・・・て、冴。居たのか・・・、いや、お前を探しに来たんだけど・・・」
やや驚いたように目をにわかに見開いている。
―この状況でどうやってオレを見過ごすことが出来る?
冴は心中でツッコミを入れるが言葉にはしなかった。
「二人ともとりあえず中に入ろう。ここは冷えるから・・・」
何をそんなに慌てているのか少し急ぎ足で士が戻っていく。「彼女」の背に手を回し、支えるようにして並んで歩く姿をぼんやり見つめながら、冴にはもうほとんど見当がついてしまった。上條家の事情についてはそこそこ把握していたから。母は病弱でほとんど家に籠りきりらしいということ。そしてその母の名前も、大体の年齢や経歴も、何かの病持ちな事も。士の会わせたい人物とは間違いなく彼女の事だ。でも士は何故彼女と自分を引き合わせたりする?士の狙いはどうあれ、オレは見事に彼女に惹きつけられて、後姿からでさえ目が放せないでいた。
あの時、奴がニヤついていた理由がこの時のオレを想像してのことならば、「見事」としか言いようがない。言い訳も弁解もしようがない。あの日、まんまとオレは恋に堕ちたんだ・・・・。