千夜の夢
プロローグ side 冴
あなたの遺体は、あきれるほど生き生きとしていた。
オレはいつもしたようにあなたの手を取り、ひたすら待った。いつか瞳を開くと信じ、あなたの手を握り締め続けた・・・。今までオレは眠ったあなたばかり見ていたから、あなたが目を覚ますのを待ってばかりいたから、今握っているあなたの手が、とうに冷たくなってしまっている事にも気づかない程にどうやらオレの全ては、オレが望むままに麻痺してしまったらしい―。
これは、オレの恋人であり、親友の母だった人の話。
ずっと消える事はない・・・確かに在った真実だよ。ねぇ、そうだよね？
千笑さん・・・。
話はオレが中学２年の冬まで遡るんだ。
そう、あなたと出会った日の事なんだけど―。
冴と士が通う私立中学は、都内に於いてトップクラスの有名校であり、折りしも裕福な子供たちが集う、言わばおぼっちゃま学校、である。その「おぼっちゃま学校」につきものなのが「おじょーさま学校」であって、ご親切にも隣の敷地に肩を並べている。経営者に直接的関係はないので系列は異なるらしいが。共にエスカレーター式で、高等部も中等部と同様に立派な校舎が肩を並べている。中等部と異なる点は、校舎は別敷地にあるものの、二つを繋ぐ渡り廊下がある事だろう。高等部では、生徒会の打ち合わせや年間行事の殆どが両校合同で行われる。
―・・・言っておくが理由など知った事じゃない。興味もない。
とにかく現在中等部に通う冴にとって、先の事などどうでもいい事だ。今日も穏やかに一日の授業が終わっていく。しかし、平穏を打ち崩すささやかな出来事は、ふとした時に起こるものだ。事の始まりは、放課後の士の一言に尽きない。
「今夜の船上パーティーは絶対に来た方がいい」
金持ちの家に生まれればそれなりに苦労もある。大企業の家の子ともなれば、周りから将来有望視されたり、学生のうちから仕事を任せられたりもする。普段から素行には十分気を遣わねばならないし、服装にだって気を遣う。いつどこで誰が見ているか分からない。どこに居ても気を抜けずにストレスは溜まる一方だ。その反動で贅沢を振るう者も多く居る。（冴や士の場合、特に贅沢な暮らしは望んでおらず、極めて質素な性格なのだが）
そんな家に生まれた為に、幼少の頃より社交の場にも顔を出し、なにかと免疫をつける為と言っては挨拶回りをさせられる。２人はコレが、超がつく程嫌いなのだ。しかし、今回に限って士は憂鬱な顔を見せずにどこか楽しみにしている様子だった。
「何ニヤニヤしてるんだよ・・・気味が悪い」
嫌悪を隠すことなく、むしろ顔にも声にも思い切り出す。それが冴だ。士は気にする素振りなど微塵も見せずに続ける。
「会って損はない人物が来るんだ」
冴は微かに眉を吊り上げた。士が他人に対して高く評価をしているという事は極めて珍しい。余程の偉人か、はたまた稀に見る変わり者かのどちらかだ。（士は変わり者が大好きである）
「期待外れだったらお前が受け持ってる子会社へ大量にクレームつけてやるからな」
「期待外れにはならない。期待以上、予想外の人物を連れて行くさ」
―連れて行く？
まさか自分の彼女でも連れてくるんじゃないだろうな、と一瞬考えたがすぐ打ち消した。士は色恋には縁遠い人間だ。見目は悪くない。悪くないと言うか、かなり整った顔をしていると思う。どこぞの令嬢が遠巻きに噂していたりするのをよく見る。が、本人に自覚はない。どんなに熱心にアプローチしようと士には届かない。元々恋愛に興味がなく、女という生体にも何も感じない。つまりそっちの欲もない。思春期男子にあるまじき事だ。表面上ではさも穏やかそうな少年ではあるが、彼の本音や素顔はどこか深く冷たい場所に隠されているのかもしれない。そう冴は感じているし、半ば確信している。
「そこまで言うなら、・・・行ってもいい」
「よし。じゃあ、あとで」
穏やかな笑顔を称えたまま、士は静かに退室していった。独り残った教室でふと、自分の心のざわめきに気づく。気持ちが高揚している。今まで震えた事のない部分が細かく振動しているようだった―。
この時まだ、オレは気づいていなかったはずなのに・・・感じたんだ。オレの人生を大きく変えるかけがえのない出会いの接近を。まるで、嵐が近づく真夏の夜に、胸を躍らせる子供のようだった。
千笑さん・・・。
あなたという、穏やか過ぎる強烈な嵐―。