千夜の夢
15.あなたは離れる
いつからこんな不安定になっちゃったかなオレは・・・。
ホラ、だから・・・いつでも傍に居てくれないと、オレは立ってもいられない。
約束して、傍に居るって―。
もう一生オレから離れないって―。
気持ちのいい午後だった。
暑い日だったけど、風の通る涼しい木陰には冷たい風が舞い込んでくる。うっすらと浮かんだ汗のせいで、余計にそう感じさせるのかもしれない。冴は自宅の裏手側にある林の影が落ちる縁側の隅に座っていた。ジーンズの裾を捲り上げ、素足を地面に投げ出して、びしょ濡れになったTシャツは、庭にある百日紅の木の枝に無造作に脱ぎ捨てられていた。朝から庭先で弓の手入れをしていた冴は、母がよく確認もせずに散水したおかげで上から下までびっしょり濡れてしまったのだ。巻きなおしたばかりの握り皮は使い物にならなくなり、張ったばかりの的も無残な姿になった。宮元家は純和風の日本家屋で、その敷地内には小さな射場が設けられている。宮元家の子らは皆、そこで弓道を学び育った。強い日差しのお陰で身体はすっかり乾いたが、勢い余って汗をかきはじめていた。冴は濡れた握り皮を巻きなおしたり、濡れて破れた的を回収したりしていたのを止めて縁側に腰を下ろした―で、今に至る。
「今日みたいな日に、こんな風にここで話すのもいいかもしれないな・・・」
「誰とー?」
突然なんの気配も無かった背後から声が上がる。
「?!ちょ、〜もぉおおおッ!!いつも言ってんだろ足音たてろって!!」
「なぁにその口の聞き方・・・。最近あんたって生意気ー」
幽霊のように沸いて出た、とでも言うべき神出鬼没さでいつも冴を驚かすのは姉の翼だった。5歳年上の翼は今年で大学2年で、はっきりと物を言う性格ではあるものの、その喋り口調は間が抜けていてどこか惚けている。何ものにも縛られず、雲のように掴み所無い人物だった。
「・・・夏期セミナーじゃなかったの?」
もはや呆れ顔で姉を一瞥すると立ち上がってTシャツを着た。すっかりカラカラに乾いたTシャツから太陽の匂いが香って、再び汗が噴出す。
「どーでもいいじゃん。それよりあんた、的こんなにしちゃってなーにやってんの?」
濡れて的紙がボロボロになったそれをさして姉がしゃがみ込む。元々小柄で小さな身体が更にコンパクトに丸まっている。姉の翼と兄の遥は双子のキョウダイで、二卵性ながら2人は良く似た顔立ちをしていて、どちらも飛び切り色白で、髪の色素も薄かった。数分の差で先に生まれた翼も身体が丈夫な方とはいえないが、病持ちの遥に比べれば元気なものだ。
「ねー、誰とお喋りしたいのよぅ。彼女でも出来たのー?」
「姉ちゃんさー、その間延びした喋り方なんとかしてよ・・・。なんか調子狂うっつか」
振り返って大きな溜息をつき、後頭部をバリバリ掻いた。短く切った髪がふわふわと揺れる。
「・・・あんたさー、猫ッ毛だよねぇ?ちょっと触らして?」
話の脈絡も何もなく、ニコーッと笑って両手を伸ばして来た。翼のこんな所が、冴はたまに羨ましくなる時があった。読めない人物ではあるが、翼にはしっかりと自分の意思を通す強さがあったし、なんとも分かりにくいが暖かい愛情を人に与える慈愛心もちゃんと備わっていた。それでいていつも自由で、周りも暗黙の了解。急にフラッとどこかへ消えてしまう事もしばしば。それでも必ず戻って来ていつもと変わらない暮らしを始めたり、全く違う事を始めたりする。 “翼”という名は姉にぴったりである、と家族でよく言っていた。
「人の髪の事なんていいから、弓持ってきて一緒に引こうよ。久しぶりに勝負しよ」
自分の弓を軽く持ち上げ、楽しそうに言う。
「あんたって本当弓道バカー♪」
ケタケタと翼が坂道を転がり落ちるように笑った。
―大きなお世話だよ。
* * *
「ねぇ、それでさぁ」
弓を引いて狙いを定め、真っ直ぐ前を向いたまま翼が冴に話しかけた。
「あんたの彼女ってー、年上でしょ?」
ガッシャンと大きな音を立てて冴の引き損じた弓が床に落ちた。
「ぃっ・・・てぇッ!!!」
「相変わらず分かりやすい子・・・」
そう言うが早いか翼の矢が的の中央に命中した。
「大当たりー」
弓を拾い上げた冴が恨めしそうにそれを見る。
「―ッなんだっていいじゃないか別に。興味ないだろ、オレの事なんか」
ひとつ小さな深呼吸をして再び大きく弓を引いたが、思い直してゆっくりと腕を戻す。
「なに?」
「・・・絶対、外す」
「あんたって昔から一度失敗すると全部外したよね」
冴に習って弓を戻し、ひとつにまとめていた髪を解いた。
「いつの話してるの?小学生の頃だろ」
ムッとして言い返す。
「つい最近まで小学生だったじゃないか君はー」
―・・・それについては言い返せない。中学なんて小学校の延長。中身にさして変わりなし。悲しい事に。
「しょーがないじゃん。どう頑張っても14歳なんだし」
言い捨てるようにして射場に背を向けて歩き出す。背後でそれを追って来る気配がする。足音を立てるよう意識しているのが分かる。でも明日にはまた気配なく近づいてくるだろう。
「やーっぱり年上の彼女なんだ」
面白がるでもなく、興味がある風でもなく横をすり抜けていく。
「・・・そんな事言ってないでしょ」
不自然にならないように落ち着いた口調で反論する。
「別にどっちでもいんだけどねー。でも、あんたに彼女がねぇ・・・へぇ」
―・・・否定するとこ間違えた。
そこへ人が入ってくる物音がして一緒に振り向いた。
「―いた・・・冴、電話だ」
珍しく仕事の予定が入っておらず、家でくつろいでいた遥がコードレスホンを持って入ってきた。律儀に射場に対して一礼し、履物を脱いでそれを揃えた。
「誰?家にかかって来るなんて・・・」
不審に思いながら受話器を受けとる。保留ボタンが赤くチカチカ点滅しているのが、何かの警告信号に見えて一瞬ドキリとした。
「士くんだよ。携帯にかけたら出なかったからって」
「?」
―そんなに急ぎの用事なんかあったかな・・・それとも―。
嫌な予感がして通話ボタンを押すのをためらったが、雑念を振り払ってボタンを押す。受話器を当てたが、士からは話し出さなかった。
「・・・士?」
<・・・冴、一人?>
「・・・兄貴と姉ちゃんと3人だけど・・・何?」
<・・・ッ千笑ちゃんが、どこにも居ないんだ>
―何かの聞き間違いでありますように・・・。
冴は通話状態のまま受話器を放り、裸足で外へ飛び出した。
約束して、傍に居るって―。