千夜の夢
14.想い溢れる
いやいやいや、キツイってキツイって。
曇りのない真ん丸な目して「士さんは好きな子とかいなんですか?」って・・・。
本当キツイって・・・。
恋愛相談会を開こうとする母の手を何とか逃れ、士は仕事部屋に引き篭もっていた。同じ建物内にある部屋ではあるが、上條家の人間―主に母と息子達が暮らす―“本宅”とは異なる表向きの“上條屋敷”に属する所だった。士はここが余り好きではないのだが、今日に限っては仕方無しにここへ逃げ込んだ。
―こんな気持ち、打ち明けられる訳無いだろう。
女性として、一人の人間として、実の母を望んでいるなんて―。大きな机に両肘をつき、頭を抱え込む。
―貴方がこの先ずっと、俺以外の何者も望まなければいいと本気で思っていた。触れる事が許されるのなら、この腕で抱きしめたいと本気で願っていた―。
だから冴を母の相手として選んだ。もちろん二人の相性についてきちんと考えた上、尚且つ自然と惹かれ合うであろうという確証の下での判断だった。結果二人は惹かれ合い、結ばれて、幸せそうだった。世間的にどんなに常識外れであっても、白眼視され後ろ指を差されようとも、俺だけは二人を最後まで見守っている。それが俺の罪滅ぼしであり、望む結末だった。自分の暴走を抑える為に冴を盾にして身を守り、自分が傷つくのを恐れ千笑を見捨てるようにして逃げた。
「―ッは・・・」
いつの間にか喉を震わせて泣いている事に気付いた。ソレはパタリパタリと落ちて、書類の上に丸く歪んだ痕を残した。歪んだ痕跡は留まる事無く広がり、嗚咽も一層激しさを増す。
―苦しい。
まるで小さな子供のように泣きじゃくって、昼か夜かも分からなくなって、そのまま眠ってしまった。下から誰かが引きずり下ろすように、どんどんと底の方へ沈んでいった。心地良い浮遊感と、泣き疲れた倦怠感が交互に螺旋を描きながら下っていく。どこまで落ちていくのかも、そもそも底があるのかも分からなかったが、不思議なほど安心出来て、開放的な気持ちだった。
ふと目を覚ますと、目の前に冴の顔があってジーッと真っ直ぐにこちらを見ていた。
「ッ?!」
驚いて一気に飛び起きる。逆向きに座って椅子の背もたれに寄りかかるようにして身を乗り出していた冴は無表情だったが、どこか不機嫌そうだった。
「・・・おはよう」
そのまま顔に表情を落とさず、不器用に言った。
「ぉ・・・、」
掠れて上手く声が出ない。
「スゴイ事になってるぞ、ソレ」
冴が指差す先を見ると、ソレは今まで自分の真下にあった仕事の書類だった。
「・・・ぁー、っと・・・ヨダレ?」
寝起きの頭を何とか稼動させ、ヘラッと笑った。
「お前のヨダレは眼から出るのか」
―圧倒的に不利だったみたいだ。
「・・・普通見て見ぬ振りしてくれるものデショ?」
短く息を吐き出し、背もたれにゆっくりと体を任せた。腹の上で組んだ両手に視線を落とし、冴が何か話し出すのを待った。
「お前だったらそうするか?」
予想外の返答に、再び次の言葉に詰まる。
「・・・そんな珍場面、俺なら見逃さないかな」
そこで冴はやっと笑った。でもそれはいつも士に向ける皮肉っぽい笑みではなく、普段千笑に向けるような柔らかい笑顔だった。
「オレさ・・・」
口篭もる冴を珍しげに眺め、黙って待った。
「―・・・大事に想ってる、お前の事も」
バツが悪そうに視線を逸らし、それでも居心地が悪かったのか椅子を蹴って背中を向けた。
「二人のうちどちらか選べといわれたら、正直迷う。―ソレは、オレ達三人・・・同じ気持ちじゃないか?」
耳を疑った。究極の天邪鬼の口から出た言葉とは到底思えなかった。少なくとも士に対しては素直な気持ちをそのまま吐き出す事など今まであまりなかったのではないかと思う。事実なかった。ソレよりも信じ難い事は、その冴の一言で士は驚くほど救われた気がした事だ。
「ぁ、・・・は、ッははは!冴は、・・・も、ユニークっていうか、ただのバカっていうか・・・」
再び不機嫌オーラを発している親友を尻目に、士は再び溢れ出しそうな涙を隠すように背を向けた。
―その日、本当に、心の底から、お前で良かったって思った。