千夜の夢
13.Jealousy?
「ふふ、可愛いです」
―あぁ、そう。分かってたけど、やっぱりそう来ますか。
冴は暑いのが嫌いだった。
うだるような暑さを好きな人間なんていないだろうが、冴は群を抜いての暑がりだ。冴の髪はいつも長めにほったらかされているが、夏の暑さの気配を感じ取るや否やサッパリスッキリ切り揃えられる。梅雨が去り、何処までも深い夏色の空からジリジリと突き刺す日差しで切りたての髪を焦がしながら、冴はアスファルトに足をもつれさせて歩いていた。もちろん、行き先は上條家。身を焼くような暑さにも負けず、アスファルトに照り返す熱にも負けずにやって来るのは―、
―全てあの人の為。決まってる。じゃなきゃ絶対外になんか出るもんか。
あなたの笑顔の為に。
とにかく進め。足を止めるな。ここで止まったらきっと死ぬ。まだ夏も始まったばかりだというのに、この調子では冴は近いうち溶けて無くなるだろう。やっとの思いで辿り着いた上條家、暑さだけでも相当やられている冴だったが、ここの何重にも設けられたセキュリティもまた然り。一秒でも早く会いたいのに、一秒でも長く一緒に居たいのに。逸る思いを必死で抑え、なんとかゲートを突破する。そして最後の手続きを受けるべくベルを鳴らす。いつもは楽天的な親友の気の抜けるような声が応えるが、今日は珍しく彼女本人が応えた。
「冴さん、いらっしゃい」
カメラで冴の顔を確認した千笑はロックを解除する。
「―おじゃまします」
士が休日に家を空けるのは珍しくなかったが、彼女が直々に外の人間と接触するのは珍しかった。息子が不在の場合でも、代わりに上條家の世話役の木下氏が対応していたからだ。疑問を抱えながら廊下を真っ直ぐに進み、大きく開け放たれたリビングのドアをくぐる。いつもと同じ定位置、下座の一人がけのソファに彼女は座っていた。振り返り、笑顔で冴を迎えた。
「こんにちは」
冴は千笑の異変にすぐに気づいた。
「・・・どうしたの?」
訝しげに顔を曇らせ、ソファに座る彼女の脇で膝をついて顔を覗き込んだ。やはり少し表情が強張っている。
「私、そんなに変な顔してますか?」
困ったように眉を下げる。
―だから、垂れ眉をそれ以上垂らしたら落っこっちゃうってば・・・。
内心呆れながら、でもどこか楽しそうにため息を漏らした。冴にとって彼女の変化を見逃さないでいる事は、彼女と居る意味として最も大きな意味がある。まずそれが出来なければ、一緒に居ても何にもならないと思っているし、実際千笑は自分から冴に何か問題を打ち明けるだとか甘えたりだとかはしてこなかった。それ自体は別に大きな問題ではない。彼女がそうすることは想定内だ。その事で冴は千笑を責めたりはしない。
「千笑さんはね、本当はオレに助けてほしいと思ってるんだ」
「え?」
「だから迷ったような顔になるんだよ、いつも」
「それって・・・」
言葉の真意を測りかねるように口ごもった。
「言っていいのかなー、迷惑じゃないかなー、とか」
ニヤリと笑って千笑の顔を両手で包む。一瞬怯んだ千笑だったが、じっと冴の目を見た。
「だーかーら、それ以上垂らしたら落っこちるって」
そう言って千笑の眉尻をグイッと引っ張った。
「っ!落ちません!!」
慌てて冴の手を掴んで引き剥がし、キッと眉を吊り上げて冴を睨む。しかし、愉快そうに笑い声を上げる冴を見ると、それも長くは続かなかった。
「もぅ。冴さんといい、士さんといい・・・今時の中学生は皆こんな風なんですか?」
「どちらかと言うとオレ達はお行儀のいいイイ子だと思うんだけど・・・あぁ、やっぱり士は特別だね」
自分の事は棚に上げて冴はケロリとして言った。
「冴さんだって十分変わってますけど・・・」
再び千笑の声から抑揚が消える。
「どこらへんが?」
千笑が何を言おうとしているのかなんとなく察しがついたがあえてここははぐらかす。
「中学生は普通私なんて選ばないんですよ」
どこかムスッとして冴から目を逸らした。いつも穏やかで笑顔を崩さない千笑が、こんな風に不満を露わにするのは珍しかった。冴はとりあえずその事に関しては置いておくことにして、最初に千笑がおかしかった原因について追求することにした。
「士と何かあったの?」
千笑はじとーっと冴を見ると、観念したように話し出した。
「恋愛相談に乗ってみようと思ったんです」
「・・・え?」
予想外の事に言葉を失う。
―恋愛相談て、それ一番マズイよ。
「な、なんでいきなりそんな事・・・」
「・・・士さんは私の事ばかりで自分の事なにも考えていないので、なにか力になりたかったんです」
「それでなんで恋愛相談なの?」
―あなたの一番苦手な分野でしょうに・・・。
「・・・今なら、分かるからです。・・・人を好きになるって、気持ちが」
真剣な眼差しで真っ直ぐに応える千笑に面食らってしまう。
「・・・士は、なんて?」
「“好きな人なんて居ない”、“恋をする予定も無い”、“今はそれどころじゃない”って」
不満そうに口を尖らせて普段は見せない難しい顔で窓の外を睨んでいる。
「何を言ってもまるで聞いてくれないんです」
今度はどこか悲しそうに足元に視線を落とす。母親として力を振るう所がまるで無いことにガッカリしているのだ。そんな姿を見ていると、冴はなんだか可笑しくなってきてしまった。それで居心地の悪くなった士は家から逃げ出したのか。状況を理解した冴は、肩を落としている千笑を見てポツリと言った。
「“寝たふりの人を目覚めさせることなどできない”」
「え?」
まるで教科書を読み上げるような口調に、千笑は思わず顔を上げた。冴はニッコリと満足そうに笑い、千笑の手を取った。
「ネイティブアメリカンのことわざ。知ってる?」
千笑は黙したまま頭を振った。沈黙で先を促す。それを受けて冴がしっかりと頷く。
「まぁ、意味はそのままなんだけど。つまり、士はちゃんと分かってるって事だよ」
「分かって?」
「恋愛は、予定や都合でするものじゃないって。千笑さんが何を言いたかったのかちゃんと分かってる。だから士は聞く耳を持たなかった」
「・・・余計に意味が分からないんですけど・・・」
唸って首を傾げる。
「まぁ、分かっちゃっても困るけど・・・」
必死で何か考え込み思考の海を泳ぐ千笑を、現実に引き揚げようと冴は握った手を引き寄せた。
「せっかく来たのに、士の事ばかり考えないで欲しいな」
「え?」
「オレと居る時は、母親しないでって事」
しばらく黙ってぼんやりと冴を見ていたが、不意に冴の髪に触れ笑みをこぼした。
「冴さんでもヤキモチ妬いたりするんですね」
鼻先で転がすようにクスクスと笑う。
「オレだって人並みにジェラシーくらい燃やします」
ムスッとして口をへの字に曲げる。
「髪・・・随分短くしたんですね」
目を細めて冴の柔らかな髪を愛おしそうに撫でた。
「なんだ、気づいてたんじゃない」
まだ不機嫌そうに口を曲げたまま言う。
「ふふ、可愛いです」
―あぁ、そう。分かってたけど、やっぱりそう来ますか。
「あんまりだ」