千夜の夢
12.大切な人
もし万が一、俺を世界一大事に想ってくれる奇特な人物がこの世に存在するならば、とりあえず感謝の念を示そう。しかし全くもって申し訳ないのだが、俺がこの世で最も大事に想う人間は実の母ただ一人であり、今後もそれを変更する予定もなければ、この「聖域」に誰かを侵入させるつもりも微塵も無い。こんな俺を好きに呼んでくれて構わない。世界一のマザコンだろうがなんだろうが、この聖域を守ることが出来るのならばそのような侮辱も甘んじて受けよう。母の幸せは俺のもの。母の悩みも俺のもの。
どんなに小さな出来事だって、絶対に見逃してなるものか。
春が過ぎ新緑の季節も足早に去って、梅雨まで明けようとしていたある午後の日。いつものようにコーヒーのいい香りがキッチンから漂ってきたのを合図に、士は自室を後にした。部屋のドアは開け放したままにして廊下を左へ真っ直ぐ進む。微かに開かれたドアからLDKがひとつに収まった25畳ほどの洋室をそっと覗き込む。母と親友が恋人同士になってからというもの、士は細部にまで気を遣っていた。二人が人目のつく所で必要以上の触れ合いを持つ事は無かったが、それでも幸せそうに微笑み合う二人の邪魔だけはすまいと影ながらの努力は怠らなかった。部屋の中の気配を探っていると、どうやらキッチンに冴一人のようだったので、気配を露わにして室内に入った。
「なにをコソコソやってるんだよ。さっさと入って来ればいいだろ」
士が視界に入るや否やきっぱりと鋭い一言が飛んだ。
―やっぱバレてたか・・・。冴、恐るべし。
「ちょっと驚かしてやろうと思っただけだーよ」
頭の後ろで腕を組んで大きく伸びをする。思いのほか気持ちがよく思わず目を細める。
「随分集中して机に向かってたけど、書類仕事か?お坊ちゃま」
半分不敵に、半分優しく。何とも言えない笑みを浮かべてコーヒーカップを差し出してくる。
「・・・自分の部屋で仕事なんかするかよ。最近授業に付いてけなくて」
一口啜って小さく息を吐く。
「相変わらずお上手です事」
ニッコリ笑って賛辞を述べる。誤解の無いように言っておくが、決して皮肉など篭っていない。
「授業に付いてけないって・・・学年トップのお前が躓くようじゃオレ達みんな落第じゃないか」
呆れた風に天井を仰ぐ。クスクスと可笑しそうに笑って、もう一口コーヒーを口に含んだ。カップに口をつけたままチラリと時計に目を遣ると、15時を少し過ぎた所だった。
「千笑ちゃんは率の部屋?」
「あぁ。眠そうにしてたから、一緒に眠っちゃってるかもな」
柔く微笑むと自分のカップにもコーヒーを注ぎ、士の正面に腰を下ろした。ゆったりと深く腰掛ける冴も、早くも少しまどろみ始めていた。程なくして冴の瞼は完全に閉ざされ、カップを両手にしっかりと握り締めたまま夢の世界へと旅立っていった。
「・・・器用なヤツだな」
しばらく冴の寝顔を眺め―というよりも見ていたのはカップばかりだったが―、静かに立ち上がり、カップを取り上げテーブルの上に置いた。話し相手を失ってしまったので、再び自室に引き上げる事にした。起こさないよう慎重に足を運び、ドアを1/3ほど開けたまま戻っていった。冴はここの所ずっと寝不足が続いるようだった。朝は以前にも増して反応が鈍く、目には疲れの色が覗いていた。きっと、千笑の病について色々学んでいるに違いなかった。ありとあらゆる関連書物を読み漁り、そして知れば知るほど心を重くしているのだ。一時期士自身もそうであったように、冴の夜は長く辛い時間になっているはずだ。自室に戻ると、コーヒーで腹を満たしたせいか士にも眠気が襲い掛かってきた。
―なんだよ、カフェイン全然効かないじゃん・・・。あぁ、出来れば眠りたくないなぁ。眠りたくない。ずっと何か考え続けていたい。何か・・・。
重く圧し掛かる瞼との戦いにものの見事に敗れると、机に突っ伏すようにして眠りに落ちた。心地よい夢を見る間もなく、士はぐっすりと眠った。
ハッと目を覚ますともう外は薄暗くなっており、時計を見遣ると18時半をちょうど指した所だった。随分と日も長くなったものだな、と寝ぼけ頭でボンヤリと考えゆっくりと机に手をついて立ち上がった。
―冴・・・千笑ちゃんと率も、まだ寝てるかな・・・。
危なげな足取りで部屋を出て、まずは冴の所へと向かう。僅かに開けておいたはずのドアが、完全に閉じられている事に気付き、冴は帰ったのかと部屋の前を通り過ぎようとした所で足が止まる。薄っすらと夕陽の射すリビングで先程と同じ姿勢のまま眠る冴の膝の上に座り、そっと頬にキスする千笑が居た。冴は目覚めると、いつの間にか自分に寄り添っている千笑に一瞬おどけて見せたが、それもすぐさま笑顔へと変わり、千笑を自分の方へと引き寄せてそっと撫でるように抱きしめた。そして小さなやり取りを幾つか終えると、優しく微笑み合い再び身を寄せキスをした。
―くそぅ、微笑み合う相手が俺だったら良かったのに。
―まったく、まったく、腹が立つ。
士は思わず零れる笑みを最小限に抑え、人肌を求めて小さな弟の元へと向かった。