千夜の夢
9.ワガママ
嫌な予感は、ずっとしていた。
あの日の午後、リビングで憂いを帯びた士の瞳を目にしてから。あんなに沈んだ士は初めて見たし、病院でオレに見つかった時のあの怯えた眼・・・。この足元が崩れるような何か良くない事が起こるって・・・。それが、こんなヒドイ事実だったなんて―。
―もう、会えない?
千笑さんの口からそんな事を告げられる日が来るなんて思わなかった。彼女はなんて切り出すんだろう。ただ「もう来ないで下さい」と言うのか・・・。きっと自分の病気の事は話さない。ただオレを遠ざける為に、一体彼女はどんな言葉を選ぶんだろう。
士に言われるまま、普段あまり入る事のない千笑の部屋へ向かった。千笑の私室は上條家のプライベートエリアの中でも、一番端にあって、まるで何かから隔離されているようだった。その理由も、分かってしまったが。千笑さんの部屋と、士と弟の率の部屋は中でも一番遠く離れている。きっとあの会長の言いつけでそおゆう配置になっているのだろう。なかなか足が前に進んでくれない。『もう来ないでくれ』と言われる為に、今オレはあの部屋に向かっている。どうしても行かなきゃいけないのか?どうしても貴方から離れなきゃいけないのか?それはもう、避けられないのだろうか・・・。やっと辿り着いた部屋の前で、一度大きく息を吸い込み浅く吐き出す。白い木製のドアを軽くノックをすると、千笑の声に招き入れられた。ドアを開くと、ちょうど正面のテーブルセットの椅子に腰掛ける千笑が目に入った。
「―どうぞ、冴さん。こちらに掛けてください」
いつものようにふわりと微笑んだ。こんな時にも、笑っている・・・。貴方の事を初めて残酷だと思った。ふらついた足取りで近づき、なんとか正面の椅子に座った。
「あの・・・お話が、あるんです」
―聞きたくないよ、そんな話。
「これは、私の我がままなんですが・・・、」
「―ッ待って」
「ぇ」
「それ以上、聞きたくない」
「え、でも―あの、大事な事で・・・、」
「絶対離れない」
「!」
「何がどうなったって・・・傍に・・・いる」
どうしようもなく声が震えた。顔面が熱くなるのを感じる。今にも涙がでそうだった。
「絶対離れない」
もう一度、力強く言葉に出す。そう言った刹那…堅く握り締めた拳に涙が落ちる。涙で濡れた拳の上に、千笑の真っ白な手が覆いかぶさった。
「ハイ。傍に、居てくださいね」
泣き顔を見られてしまうのも忘れ、驚いて顔を上げた。千笑はやはり穏やかに笑っていたが、それは今までに見たことのない狂おしくなるような微笑だった。
あの日のあの笑顔が、もう一度見たいな―。