千夜の夢
10.冴の嫌いな上條君
俺の言葉は全て真実だ。
薄っぺらなお世辞も、皮肉たっぷりのジョークも、張り付いた笑顔の下から吐き出される全てが心からの言葉だった。世の中を蔑んで自分自身を偽る。俺がこの世界で生きていくために取った常套手段。
―お前と俺じゃ、そこが違う。
だからこそ母さんに愛されるに相応しい。そう考えていた。
母と親友の関係が変化して早一ヶ月が経つ。
2人は以前と変わりなくとてもオープンで、とても自然体だった。リビングで寛ぎ冴の淹れたコーヒーを啜る。テラスに出てバラを眺めたり、書庫へ行って詩集を漁る。たまに雨が降れば傘を差して庭を歩いた。母さんは雨の日が好きだった。それも体に障るからと長くは許されなかったが、雨が降ればお気に入りの傘を差し庭を歩いた。昔よく母が言っていた言葉を思い出すと、日が暮れそうだった心が熱くなった。
―“雨が降ると、元気になれるの。汚れた空気を洗い流してくれるから”と。
まだ幼かった俺は多分「雨ってすごいんだね」なんて言って笑ったんだろう。その度母は幼い俺の頭を撫で、優しく微笑んだに違いなかった。成長してあの言葉に些細な理由があった事を知り、たっぷりと悲しみ、余計に怒りを燃やした。何より大事な母の身に、負荷をかけ続ける病に。誰より愛しい母の事を、何も知らなかった自分自身にも。悲しみと怒りを大きく成長させると、最後には何も無くなった。自分がもがいたってどうにもならない事に気づいてしまい、もがく事をやめた。ただ母を支える為に、この家での地位を得なければならなかった。気の進まない事に次から次へと挑み、祖父を満足させて機嫌を取る。母により良い治療を受けてもらうため奔走し、母が心細くないよう自宅での療養環境を整えた。今まで生きた15年間で出来る限り、己の全てを母が為に注いできた。そんな自分の今までの人生を振り返る最中に、どうやら冴が家へやって来ていたらしい。
「何難しい顔してんだよお坊ちゃま」
冴は自分もお坊ちゃまの癖に、俺をこう呼ぶのが好きだった。
「己の人生を振り返ってた」
何も繕わず真剣に答えると、思いがけない笑い声に見舞われる。一通り笑ってもう満足だと言わんばかりに息をつきこちらを見た。
「何を疲れきったオッサンみたいな事言ってるんだ」
思い切り馬鹿にした態度で言われる。
「なんだ、随分感じ悪いな」
冴の態度が珍しく皮肉っぽかったのでつっこんだ。冴はいつも皮肉めいたことを言うが、あれは皮肉ではなく極めてストレートなだけだ。
「今のお前、オレの嫌いな“上條くん”」
「・・・・・・・・・」
「お前は余計な事考えないで厭味なままでいいからな」
「オイ・・・」
抗議する間もなく冴は続ける。
「一生懸命真っ直ぐ見過ぎると、お前は突っ走る道間違えるよ」
返す言葉も無い。
以前俺は、なんとか母さんの病気を治してやりたいと無理して体を動かしつづけた。日本中の名医を片っ端から当たって、結核という病について隅から隅まで調べ上げた。学校を長期に渡って休み、家にも殆ど居なかった。結果、母さんは悲しんだし俺もクタクタだった。そんな時、今みたいに突っ走る俺の足引っ掛けたのが冴だった。俺は思い切り転んで何が起こったのかわからなくてただ呆然とした。
―まったく、痛くてしょうがない。
「で、上條くん。まだ走るのか?」
無表情な冴の顔が覗き込んで来る。その面白みも何も無い顔をみて、何故かいつも安心する。
「いや。もう疲れちゃった。冴、おんぶして♪」
「お断りします」
俺は自分の事をもっとずっと大人だと思っていた。自分でなんでも出来たし、誰かを支える事だって出来ると。でも、実際誰かに支えられていたのはまだまだ子供の自分だった。その俺を支えてくれているのが他でもない両親と小さな弟、そして冴だ。冴だって大人から見ればまだまだ子供だ。でも、俺の周りにいる心無い人間達より心はずっと大人だった。本音と建前の使い分けなんてとうの昔に覚えた。でも俺を支えてくれる人達の前ではありのままの本音を吐き出せる関係でありたい。その人達と互いに支え合えるように。
「で、その後どうなの?」
俺は無理矢理話題を変えることにした。
「・・・変わりないよ」
今更「何が?」なんて冴は聞かない。
「変わりなく、幸せだ」
冴の穏やかな表情からは言葉の意味そのままに幸福が漂っていた。
人は日々変わっていくのに、変化を求めたり現状を望んだりする。人は変わるための努力ばかりするが、変えてはいけない所まで簡単に変えてしまう。変わらない事を求める冴が、とても「普通」に思るのだって俺が普通である証拠。でも、逃げ続けても変化はやってくる。
どんなに逃げても、逃げても―。