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みそっかす
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novelistID. 19254
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吉原鏡屋之事

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「私もこんなことは言いたくないんだがね、君にこれといって長所はないし、仕事の方もぱっとしない。つまらない人間に金を裂くほど、こちらも余裕はないんだよ」
 それに言い返す言葉は見つからなかった。永倉は煙草に火をつけ、大きく煙を吐き出す。無駄に広がった煙は、永倉の前に立つ鷹村を覆った。きつい匂いに鼻がひくつく。
「そういうわけで悪いが早く荷物をまとめて出て行ってくれ。なに、君の仕事の引継ぎはこちらでやっておく。そんなたいした仕事もないだろうがな。正式に辞めるのは一ヶ月後。二か月分の給与は与えるから、その間に仕事を探すんだな」
 以上だ、と無情に告げる永倉。呆然としたまま鷹村は部屋を出て行った。
 それから鷹村の記憶は曖昧だ。気がついたら自分のアパートにいて、座っていた。傍には荷物が入ったダンボールがあり、ちゃんと荷物を整理してきたのだと思った。外はすでに夕暮れで、部屋はすっかり赤く染まっている。
「つまらない人間、か」
 永倉の言葉が頭の中をこだまする。自分でも、確かに面白くない人間だと思っていた。それはどうしようもない事実だと認めていた。しかし、それをこんな形で突きつけられるのは、やはりつらかった。
「これから、どうするか」
 実家に帰ろうにも、鷹村に帰る家はなかった。母親は幼い頃に亡くしたし、父親も数年前に他界した。ほかに兄弟もいない。友人に泣きつくわけにもいかない。皆、家庭を守らねばならない。
 仕事はなくした。このアパートも金が尽きれば追い出されるだろう。この歳で、仕事は見つかるのか。これから生きていけるのか。俯いてしまう顔を何とか上げると、ふと目に入ってきたのは、壁に張られた鏡屋の案内図。
 浮かんでくる、藤次郎の顔。
 鷹村のことを面白いと言った。
 このまま腐らせてしまうのは惜しいと、歌声を褒めた。
 わずかな時間を過ごしただけなのに、友人だと笑った。
 気軽に来てくれと見送っていた。
 鷹村は案内図をはがし、震える手でそこに書かれている番号に掛けた。
「……もしもし」
 ―――最後の、希望だ。


「それじゃあ、今夜にでもいらしてください。……なにを仰ってるんですか。お待ちしていますよ、鷹村さん」
 藤次郎は穏やかな声で別れを告げると、ゆっくりと受話器を置いた。年代物の黒電話が、かちゃりと音を立てた。こみあげる喜びを押さえながら、別の相手に電話を掛ける。相手にはすぐに繋がった。
「突然のお願いを聞いていただきありがとうございます、永倉さん」
「いいえ。いつもお世話になっている鏡屋さんの頼みとあらば、あの程度のこと雑作もないです」
 電話口から永倉の笑い声が響く。
「ありがとうございます。どうぞ今後ともご贔屓に」
「もちろんそうさせていただきます。そちらのような見世は他にないですからな」
 それからひとしきりこちらを褒めちぎると、それにしてもと永倉は話題を変えた。
「最初は少しばかり驚きましたよ。鷹村を辞めさせて貰えませんか、なんて。あれがそちらで何かやらかしましたか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
 藤次郎は適当に流したが、永倉は気にならなかったようで、むしろ嬉々としてしゃべりだす。
「そうですか、そうでしょうな。上司の、いや、元上司の私が言うのもなんですが、あれは気が利かない男でね。こちらも会社のお荷物がいなくなって清清しましたよ」
「そうですか。それはよかった」
 永倉の声の後ろから、妙に甲高い女の声がした。
「ああ、すみません。これから人に会う約束がありまして」
 慌てたように言う永倉に、いいえ、と笑う。
「こちらこそお時間をとらせてしまってすみません。本当にありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」
 耳から離した途端聞こえてきた永倉と女の声を断ち切るように、怪しく思われない程度にすばやく受話器を置いた。
 そして、藤次郎は一人、笑い出した。まるで無邪気な子どもが喜ぶような、もしくはどこか壊れたような、満面の笑み。
「くっ、くくっ、ふっ、はは、はははっ、はははっ!」
 肩に掛けた濃紺に蝶が舞う豪奢な仕掛けが皺になるのも気にせずに、藤次郎は笑い転げた。
 思った通りに事が運んだ。順調に運びすぎて怖いくらいだ。仕向けたのは自分だが、本当に鷹村からやって来た。
永倉はあまり好きな客ではなかったが、こんなところで役に立つとは思っていなかった。鷹村が帰ってすぐ、あらかたの情報を集めたが、そのなかに見知った名前があって世間の狭さに驚いたものだ。鷹村のことを散々に言っていたのは許せなかったが、今回のことに免じて、それについてはまだ先延ばしにしておいてもいい。しかし、ここで鷹村と鉢合わせたら面倒なことになるだろう。それに今回のことで何やかやと言われるようになるのも避けたい。やはり、早めに手を廻しておこう。
 笑いながら、これからのことを考える。先のことを考えるのがこれほど楽しいのはいつ振りだろう。
「ふふっ、あははっ、はははっ、くくくっ、くすくす……」
 見世の者が藤次郎を奇異の目で見るが、藤次郎は気にならなかった。それが正しい反応だろうと、頭の片隅で思う。
 けれども笑いは止まらない。仕方がない、欲しいものが手に入ったのだから。
 鷹村の歌声を聞いたときから、どうしても手元に置いておきたかった。あんな才能を娑婆で腐らせてはいけない。信じてはいない神に誓ってもいい。
 年齢は高いが、それはどうにでもなる。むしろ話題になるだろう。この世界は実力重視だ。きちんとした師匠につけば、すぐにものになるだろう。近いうち、人形以外のこの見世の売りになることは間違いない。
 そして才能ももちろん欲しかったが、藤次郎は鷹村自身が欲しかった。自分を軽んじているのは玉に瑕だが、色眼鏡なしに人と対する姿勢、丁寧な物言い、ありのままを受け入れるその雰囲気が良い。これが楼主としてなのか藤次郎自身なのかは、藤次郎ですら分からなかったが、どちらも自分には変わりない。
 花街で生きていくには大変そうだが、それもどうにかなるだろう。ならなければ、そのときは藤次郎の力でどうにかさせる。
「はははっ! ……はぁあ。ごめんなさい、鷹村さん」
 藤次郎は孝・悌・忠・信・礼・義・廉・耻、八つの道徳を忘れた忘八だ。
「恨むなら、ここにきた自分を恨んでください」
欲しいものは手に入れる。それがどんな汚い手でも。


 黄昏に染まる大門を、鷹村はくぐった。片手に案内図を持ち、目的地へ進む。目指すは鏡屋、藤次郎の見世だ。恥をかなぐり捨て、案内図にあった電話に掛けるとすぐに繋がり、藤次郎が出てきてくれた。親身に話を聞いてくれ、ともかく一度見世に来て欲しい、悪いようにはしないと言ってくれた。今や、鷹村にとって頼みの綱は藤次郎だけだ。これでどうにかならなかったらもう諦めるしかない。
 しかし、鷹村には藤次郎が自分を見世で雇うだろうという、妙な確信があった。
 永倉にクビを言い渡された時。永倉の煙草の煙に混じって嗅いだ覚えのある匂いがした。
 脳を溶かすようなと甘い香りと、涼やかな薄荷の香り。
 あの甘い香りは鏡屋秘伝の練り香。
 あの薄荷の香りは藤次郎が吸っていた刻み煙草のもの。
作品名:吉原鏡屋之事 作家名:みそっかす