吉原鏡屋之事
「喜一郎?」
「……藤次郎さん、もう十分です。たとえ幻でも、母に会えて嬉しい。でも、俺はもう、たえられない」
この母親の作り主に、流れる涙もそのままに鷹村は訴えた。
「すみません、鷹村さん。悲しませるつもりはなかったんです」
沈痛な響きをもって詫びる藤次郎の声とともに、あの甘い匂いが消えていった。すると、鷹村が掴んでいた母の腕は人形の腕に、微笑んでいた顔は美しくも無表情な女の顔になった。
「大丈夫ですか?」
藤次郎にハンカチを差し出され、鷹村は恐縮しながらもそれを受け取り涙を拭った。いつの間にか開け放たれた窓から夜風が入り、泣いて熱くなった顔を冷ましていく。
「今のは、一体何だったんですか? この人形が、母になって。口調も仕草も、匂いまで……記憶の中の母そのままで。幻というにはあまりにも出来すぎていました」
「あれは幻です。正確に言えば、鷹村さんが自分の記憶で作った幻」
藤次郎は静かに笑い、床の間に飾ってあった香炉を見せた。中にはほとんど灰になった練り香があった。
「先ほど甘い香りがしたでしょう? あれは見世秘伝の特殊な香です。あの香りには人の記憶に働きかける作用があるんですよ」
「人の記憶に?」
「ええ。他にも人の神経に働きかける作用があります。あまり詳しくは言えませんが、もちろん身体に害はありません」
目をぱちくりさせる鷹村に、藤次郎はさらに続ける。
「簡単に言えばあの香りで催眠術をかけるんです。もっとも会いたい人間に会っている催眠を。催眠状態に陥った人は、人形がその人物に見えるようになるんです。人によってかかりやすさは違いますが、そこはこの見世の腕の見せ所ということで」
藤次郎のおどけた口調に、知らずこわばっていた鷹村の表情も緩んだが、疑問は尽きない。
「本当に記憶だけであんなに本物のように見えるんですか? 俺が母を亡くしたのはもう三十年以上前のことです。俺自身、忘れていた記憶もあるのに、どうしてあそこまで正確に見せることができたんですか?」
「記憶と言うものは思っている以上に正確に蓄積されているものなんですよ、鷹村さん。本人が自覚していないだけで、膨大な記憶は確かにあるんです。そのなかには音も匂いも質感も、五感全ての記憶があります」
確かに、そのようなことはテレビや何かで鷹村も聞いたことがあった。しかし、実際に自分の身に起きてみても、いまだ信じることができない。
「でも、あの人形は俺の涙まで拭いた。それは記憶だけではとても無理だ」
「それは鷹村さん自身が人形を動かしたんです。無意識のうちに人形を動かして、自分が望む仕草をさせたんです。人形に色を求める客も同じです。自分が望む恥じらいの仕草、誘う姿を自らの手で人形にさせる。それは無意識の記憶かもしれないし、無意識の願望かもしれません。けれどもそれは間違いなく、自身の内から出てきたものですよ」
それはつまり、自分は母に慰めて欲しかったということか。優しく涙を拭われたいと思っていたということか。
「それは…何とも、お恥ずかしいところをお見せしました」
鷹村は身を焼くような羞恥心に襲われた。みっともなく涙を流したところを見られたどころか、大の男が母親に慰められたいと思っているなど見苦しい以外の何物でもない。まともに藤次郎の顔を見られず俯くが、顔の熱は冷めることはない。
「ほんとうに、もう、お見苦しいものを……すみません」
やっとの思いで謝るが藤次郎の反応はうかがえない。流石に情けなさ過ぎて呆れているのだろう。しかし、あまりにも藤次郎から反応がないので、鷹村も不安になる。
「藤次郎さん?」
思わず顔を上げると、なんとも形容しがたい顔でこちらを見ている藤次郎がいた。困惑しているような、笑いたいような、すまなそうな、面白そうな、色々な感情が混ざった表情。それでも端整な顔立ちが損なわれることはなかったが。
「藤次郎さん? どうかしましたか?」
「…鷹村さん」
「…はい」
「言ったでしょう? この街は欲の街。人の数だけ欲がある。一時の桃源郷で、誰に何を恥じることがあるんです。あるがまま、思うがままに過ごすに限りますよ」
「……そうでしたね」
そうだ、ここは吉原、幻想の街。このなかでの出来事は一時の夢なのだ。夢の中で何を恥じる必要があるのだろう。鷹村はまだ腫れぼったい目を細め、小さく笑った。
「それにここは色街。鷹村さんの泣き顔よりもっと恥ずかしいことはたくさんありますよ」
花街の楼主に相応しい藤次郎の艶めいた笑みに、鷹村は赤面を禁じえなかった。
気がつけばもう吉原の大門が閉まる時刻になっていた。今から帰るのも大変だからと、藤次郎の勧めにより、申し訳ないと思いながらも鷹村は鏡屋に泊まった。一人で寝たにも関わらず、久しぶりによく眠れた。
鷹村は早めに出ようと、夜が明ける前に起きた。一階に降りるとすでに藤次郎は起きていて、内証で朝の一服と煙管を吸っていた。薄荷のような香りが漂っていた。
鷹村が、泊まったのだから花代を払おうとしたが、どうせ部屋が空いていたからと藤次郎は受け取らず、しまいには友人を泊めただけだと言われてしまった。嬉しかったが、どうしてそこまでしてくれるのか鷹村は不思議だった。藤次郎に尋ねても笑ってはぐらかされた。
「色々とありがとうございました」
「いいえ。俺も久しぶりに楽しい時間が過ごせました」
「そうですか」
「ああ、そうだ。これうちの案内です。俺が歌ってなくても、この見世に来れるように」
藤次郎が笑って差し出したのは、葉書きほどの大きさの案内図。見世までの地図と電話番号が書かれている。鷹村も笑いながら受け取った。
「確かに、藤次郎さんが歌っていなかったら、こんな入り組んだ場所にある見世にはたどり着けなかったですよ」
「迷子にならないで下さいよ? 俺は鷹村さんみたいな耳はしてないんで、泣いてたって迎えにはいけませんから」
「はは、気をつけます」
「それじゃあ。お気をつけて。どうぞいつでも来てください。買うことは抜きにして、何か相談事でもいいし、気軽に遊びに来てください。待ってますよ」
「ありがとうございます」
社交辞令なのはわかっていたが、それでも鷹村は嬉しかった。にこやかに笑う藤次郎に見送られ、鏡屋を出て行くその足取りは軽く、口元は僅かに上がっていた。
鷹村の姿が見えなくなり、やがて空が白ばむまで、藤次郎は見世の入口に立っていた。笑みが消え失せたその顔で、小さく呟く。
「……すみません、鷹村さん」
ゆっくりと、唇が弧を描いた。
「鷹村君。きみはクビだ」
「え?」
鷹村が鏡屋に行ってから二ヵ月後。鷹村は突然上司に呼び出され、クビを言い渡された。
「聞こえなかったのかね? 君はクビだと言ったんだ」
「どうしてですか、永倉部長!」
「君も知っているだろう? この不況でいくら大手の我が社でも経営が大変なんだよ。会社の存続には犠牲が必要だ。不要な人材は切り捨てねばならない」
「不要な、人材……」
永倉は肥えた腹を擦りながら鷹村を見た。その顔には明らかに嘲笑が浮かんでいた。