吉原鏡屋之事
鷹村は耳だけではなく鼻もいい。耳が雑踏のなかでも音を目的の音を拾うように、どんなに入り混じった匂いでも、鷹村の鼻は嗅ぎ分ける。木訥で耳と鼻が良い鷹村を、鷹ではなくて犬だと笑ったのは朴念仁と称した彼だったか。
時おり永倉の煙草の匂いが違っていたのには気づいていたが、その原因を知ることになるとは思っていなかった。おそらく永倉が鏡屋に行ったときに、香りが煙草に移ったのだろう。それほど長く、あの見世にいたということか。
藤次郎と永倉の間に、何かあったのかそれは分からない。それでも何かあったことは確かだ。
思い出されるのは、鷹村の歌を聴き終わったときの藤次郎の顔。言葉も目も、こちらが怖くなるほど本気だった。
(貴方の歌は、声は、このまま腐らせてしまうのは惜しい)
もしも、藤次郎が本気で鷹村の歌を惜しみ、永倉に何らかの働きがけをして鷹村を辞めさせたのだとしても、鷹村は藤次郎を恨む気持ちはなかった。
むしろ、そこまで欲しがられていることに喜びすら感じる。これは女とただ寝ること以上に、おかしなことだろう。
「でも、あなたが言ったんですよ、藤次郎さん」
(この街は欲の街。人の数だけ欲がある。一時の桃源郷で、誰に何を恥じることがあるんです。あるがまま、思うがままに過ごすに限りますよ)
ならばあるがまま、思うがままに、鷹村は藤次郎の元に行く。
そもそもこんな自分を他に必要だと思うものはいないのだ。ならば欲しがるもののもとに行くのが一番良い。
風に乗り、あの小唄が聞こえる。鷹村は足を速めた。歌声を決して聞き逃さないよう、聴覚を尖らせる。そして歌声も鷹村を誘うよう、途切れることなく紡がれる。
その歌声は、あの至高の夢を見せる練り香よりも、何倍も甘く鷹村の思考を溶けさせた。
『ここは何処 目隠し鬼が野を歩く 鬼さんこちら 手の鳴るほうへ 何も映さぬ鬼の目は 汚れた珪砂の板に住む』
了