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みそっかす
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novelistID. 19254
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吉原鏡屋之事

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 声は先ほど隣から聞こえてきた女芸者のもの。声の調子から節回しまで寸分の違いもない、艶のある美しい歌声。藤次郎も実際に見ていなければ到底信じられない光景だった。男の咽喉から紡がれる声の鮮やかなこと。高音はどこまでも伸びやかで張りがある。低音は広く深く、聞く者の身体に響いてくる。

『君に会うため渡る橋 君に会うため通う路 夢の浮橋通い路は 朝露こぼれて崩れ落ち 気がつきゃあかつき 鴉が啼いた』

 一曲歌い終わり、鷹村はそっと目を開けた。こちらを凝視する藤次郎に、羞恥と緊張が一気に押し寄せ赤面する。男でも女でも、整った容姿のものに見られるということに鷹村は慣れていない。たとえ幾度かあったとしても慣れることはないだろう。本当に美しいものは見るたびに深みに嵌っても、そこから抜け出すことはできないものだ。
「どうでしたか?」
 赤くなった顔を誤魔化すように笑って尋ねれば、藤次郎は深く息を吐き、鷹村にとっては強すぎた視線を和らげた。
「鷹村さん、あなたのそれは声まねなんてもんじゃない。本物を越えている」
「お世辞でも嬉しいです」
「いや、これは本当のことです」
 本人に自覚はないだろう。しかし、藤次郎は無二の才だと確信している。鷹村の咽喉は天性のものだ。
「鷹村さん。俺はこれでも楼主です。人を見る目は幼い頃から培ってきました。遊女も芸者も客も、数え切れないほど見てきました」
 幼い頃から今はなき両親により、楼主に必要な全てを叩き込まれた。年端もいかぬ頃から大見世に奉公し、一流の太夫や芸者、遊客を見てきた。そして得たものは人を見る目。遊女、芸妓の才能の優劣、伸びしろを見抜く目。客の人柄、性格を見抜く目。関わる人間がいかに見世に利益になるか思案する、長年の経験に裏打ちされた楼主の目は絶対のものだ。
 本人そのものの声でありながら、その歌の深いこと。聞くものの魂にうったえかける、圧倒的な歌唱力。
「貴方の歌は、声は、このまま腐らせてしまうのは惜しい」
「藤次郎さん……」
褒めても何も出ませんと、一笑にふしてしまえればどれだけ良かっただろう。鷹村がなんと答えればいいのか分からないほど、藤次郎は真剣だった。鷹村の困惑した様子に気がついて、藤次郎は苦笑した。
「そんな顔をしないで下さい。褒めているんですから、もっと喜んで下さいよ」
「は、はい」
 それでも変わらない鷹村に、藤次郎は「そうだ」と手を打った。
「鷹村さん、素晴しい歌のお礼です。これからうちの遊女をお見せしましょう」
「え? でもさっき遊女はいないって」
「ええ。この見世に人間の遊女はいません。でも、この見世にはお客にとって『理想の遊女』がいるんですよ」
 首を傾げ不思議がる鷹村に、藤次郎は悪戯っ子のような笑顔を見せた。


「鷹村さん。この妓がうちの遊女です」
 藤次郎が若い者(遊女屋で働く男集のこと)を引き連れて戻ってきた。その若い者の腕に抱えられているのが、藤次郎の言う、遊女。
「藤次郎さん、その妓は」
「ええ。ご覧のとおり、人形ですよ」
 その人形はあの張見世にあった人形だ。
結われた黒髪にはべっ甲のかんざしが蝶のように広がり、前帯は大ぶりの一輪の花のよう。赤地に牡丹の仕掛けが、人形の肌をよりいっそう白く見せている。
着物からのぞく首根や手の指を見るに、細かいところまで作りこまれた球体関節人形である。鷹村の素人目でも、この人形が並大抵のものではないことが分かる。
「触ってみてもいいですよ」
 おそるおそる、人形に手を伸ばす。ためらいがちに触れたその肌は滑らかで、そして、
「やわらかい……」
 人形とは思えない、まるで人間のような、いや、人間そのものの張りのあるやわらかさ。触れた部分からはぬくもりすら感じられる。
「藤次郎さん、これは一体……」
「この見世は、人形専門の見世なんです。うちで売る遊女はみんな人形。ちょっと特殊な作りの人形で、人肌そのままの感触や温度を持たせるのには苦労しました。そこらに出回るダッチワイフとは格が違うと自負しています」
「これが客にとっての『理想の遊女』ですか?」
「もちろん、これだけでは『理想の遊女』にはなりません。これは器。中身は別です。ちょっと付いてきてください」
 藤次郎に連れられて、鷹村は見世の二階に上がった。赤絨毯が敷かれた大階段を上がると、三方四方にのびた廊下を西洋東洋の絵画や装飾が不思議に美しく飾っていた。
「こっちです」
 階段近くの広間の前を通り、奥へ奥へと進んでいく。廊下を何度か曲がり、たどり着いたのは最奥の部屋。
「さあ、お入りください」
部屋は四隅に燭台に燈されていた。障子窓と小さな床の間に香炉が一つ置かれているだけで、他には特に装飾もない、簡素な部屋。
妓楼では女郎が上座へ座る。若い衆から人形を受け取った藤次郎は上座へ、客の体を取っている鷹村は下座へと座った。
「鷹村さん。どなたかお会いしたい人はいますか?」
「え?」
「あなたがもっとも会いたい女性です」
「会いたい、ですか」
「どなたか、いらっしゃいますか?」
 言われるがまま鷹村は思い浮かべた。
「ええ、一人。もう会えませんが」
「そうですか。では、目を閉じてください」
 鷹村が目を閉じると、ほのかに甘い香りが漂ってきた。どこか懐かしく、古ぼけた記憶に似た、セピア色の香り。酩酊したような感覚が襲ってくる。
「鷹村さん、人影が見えますか」
 時おりもれ聞こえた客の声や、隣の見世の喧噪はもはや聞こえない。藤次郎の声だけが、唯一の音だった。そして、その声に誘われるように、閉じた鷹村の視界にぼんやりとした人影が浮かび上がるが、まだ靄がかかってはっきりしない。
「見えましたか? もっとよく見てください。だんだんはっきり見えてきたでしょう?」
 人影にかかっていた靄がゆっくりと晴れていく。いや、靄が人の形になっているのか。けれども、それは確実に鷹村が会いたいと思っていた人に間違いない。思わず手を伸ばすと、鷹村の手は確かにその人の腕を掴んだ。
「さあ、目を開いて。あなたの会いたい人はここにいます」
 鷹村が目を開けると女の腕を掴んでいた。呆然としている鷹村に、女は鷹村が知っている、優しい笑顔を浮べた。
「男がそんな顔するんじゃないの」
「…かあ、さん」
幼い時分に亡くした母が、赤地に牡丹の仕掛けを纏い、目の前に座っている。こんなに美しく着飾った姿は見たことがないはずなのに、声も仕草も表情も、僅かに残る記憶そのまま。
「もう、何泣いてるの。泣き虫なのは相変わらずね」
頬を知らず伝っていた涙を、母はそっと拭う。その指のぬくもりに、また涙が流れた。
「さあ、もう泣き止みなさい。あんまり泣くと目がとけちゃうわよ」
 ああそうだ。幼い頃、鷹村が泣くと母はそう言って慰めた。言われて思い出した、忘れた言葉。
 本当に亡くなったときのままの、母。
「どうしたの? 喜一郎」
 今ではもうほとんど呼ばれない自分の名前を呼ぶ穏やかな声に、鷹村は崩れるようにうつ伏せた。
 死人が生き返らないことは理解している。
 目の前で微笑む人が本物の母ではないことも分かっている。
けれども見た目が、声が、匂いが、ぬくもりが、この人は母だと言っている。
作品名:吉原鏡屋之事 作家名:みそっかす