吉原鏡屋之事
廓の楼主は忘八と呼ばれる。孝・悌・忠・信・礼・義・廉・耻の八つの道徳を忘れるほど面白いところが廓で、それを忘れなければできないのが廓の主人という意味だ。女郎の買入れに腐心し、見世の経営に気を配る。冷酷で才智がなければ勤まらないのが楼主だ。
それを年若い藤次郎が勤めている。そのためか、明るく活発そうな容姿には似つかない、どこか陰を纏った雰囲気がある。それがこの青年に、凄みのようなものを与えていると鷹村は思った。
「藤次郎さんは、おいくつなんですか?」
「二十五になります。鷹村さんは?」
「三十七です」
鷹村よりちょうど一回り年下だ。その年で見世の楼主を勤めているのだから驚きだ。
「お若いのに楼主なんて、すごいですね」
「いいえ、親のものを引き継いだだけですから。見世のものたちに支えられて何とかやっているんですよ」
藤次郎は照れたように酒をあおる。そのような仕草を見ると楼主には見えない。しかし、もし、この仕草までも計算されたものだとしたら、これほど楼主らしい楼主もいない。
見世は客との信頼関係が大きく経営に関わってくる。いかに客と限られた時間の中でより深く信頼を築くか。それは見世の対応、遊女の手管によるところも大きいが、楼主の人格というものも大切だ。遊女と同じく、いかに人を惹きつけるか、心を掴むかということで、その楼主の評価、ひいては見世の評価が決まる。そのため楼主は自分の見せ方というものをよく知っている。いかに自身の魅力をもっとも良い形で見せるか、楼主はまるで役者のように楼主という人格を作り上げていく。
もちろん、人によってどのように見せるかというものは違う。藤次郎のそれは、まさにもっとも自身の魅力を現しているものだろう。
「それにしても鷹村さん。誘っておいて言うのもなんですが、他の見世に行かなくてよかったんですか? ご存じないかもしれませんが、この見世は遊女は置いてないんですよ」
「そうなんですか」
鷹村はわずかばかり驚いたが、一つ頷くと少しだけ酒を舐めた。
「それでも、行かないんですか?」
藤次郎の疑問はもっともだろう。この街にいるということは色を買いに来たということだ。最近では女だけではなく男も売る見世もあるそうだか、鷹村にその気はない。買うのはもっぱら女だが、それも色を買いに来ているわけではない。
「寝る相手を探してたんです。ただ単純に、いっしょに寝るだけの」
「寝るだけの?」
「ええ」
猪口がかちりと歯に当たったのも気にせずに、鷹村はぐいっと酒をあおった。それで勢いがついたように、とつとつと喋りだす。
「時々、どうしても眠れない夜が何日か続くんです。医者に診てもらって、薬も飲んでるんですが、どうしても駄目で。そんな時、気晴らしにと友人が見世に連れてきてくれて、そこで妓(こ)と寝たんです。そうしたら久しぶりに眠れて、それ以来眠れない日が続くとここに眠りに来るんです」
おかしいと思いますか? と鷹村は自傷気味に笑った。
人並みに欲はある。女の抱き心地のよさも知っている。柔らかなぬくもりは心地良いが、ただそれだけだった。いい歳をした男に心底抱きたいと思う相手がいないというのも我が事ながらおかしいと鷹村は思う。そんな鷹村の胸のうちを見透かしたように、藤次郎は静かに首を振った。
「おかしくないですよ。この街は欲の街。人の数だけ欲がある。その欲でこの街は成りたっている。一時の桃源郷での楽しみ方に悩むのは、それこそ野暮ってものです」
瑞々しくも落ち着いた声のせいなのか、それとも楼主という人の上に立つ立場のためか、藤次郎の言葉は鷹村の胸にすとんと落ちてきた。年下にさとされたというのに何の苛立ちも感じないのも、藤次郎の人徳というものなのだろう。
「藤次郎さん」
「はい」
「ありがとうございます」
自然に頭が下がった。鷹村の突然の行動に、藤次郎は目を丸くしながら慌てた。
「頭を上げて下さい。俺は何もしてませんし、こんな若造に頭なんか下げちゃいけませんよ」
あまりにも必死な様子で言う藤次郎に、鷹村は笑いながら顔を上げた。それを見て藤次郎は口をとがらせる。
「まったく…、見世のまん前で立ってて変わった人だと思いましたけど、喋ったらしゃべったでやっぱり変わってますね、鷹村さんて」
「そうですか?」
「見た目は真面目そうというか、剛健実直というか。その癖俺みたいなのにも頭を下げるし、敬語だし……いや、だからですか」
「これと言って面白みがない人間なんですよ」
それは鷹村の本心だ。容姿、中身どちらも特に誇れるものはない。
身長は高いが、鍛えてはいないので中肉といったところ。黒髪黒目の面長で、一重ではないのだが目が鋭く、会う人間にはきつい印象を与える。典型的な日本人を縦に長くしたような見た目だ。
これといって特技もなく、喋りも上手くはない。会社の中でもあまり目立ってはいない。いまだ独身で、趣味もなく、酒も煙草も嗜まない。朴念仁に服を着せたような、とは鷹村の友人の言葉だ。
「いや、鷹村さんは十分面白いですよ。俺にしてみれば」
「そんなことを言われたのは生まれて初めてです」
互いに酒を注ぎあいながら、二人は笑った。
「藤次郎さん、お客様が来ますよ」
程よく酔いが回ってきた頃、鷹村が唐突に言った。
「分かるんですか?」
藤次郎の耳には、隣の見世から聞こえる女芸者の小唄しか聞こえない。しかし、鷹村ははっきりと頷いた。
「ええ。『鏡屋は確かこの辺りのはずだが』『次の角をまがったところですよ、旦那』という声が」
声まねをしてみせながら話す鷹村を、藤次郎は驚いて凝視した。その声まねがあまりにもそっくりだったからだ。
鷹村が声まねした一人は以前この見世に来た客。もう一人はこの界隈で入り組んだ道を把握して、客人を道案内をして稼ぐ男のもの。藤次郎は商売柄、一度会った人の顔と名前、その他もろもろのことを完璧に記憶している。その記憶と完全に合致していた。
「鷹村さん、耳がいいだけじゃなくそんなこともできるんですか」
「そんな凄いことじゃありません。ちょっとした余興にしかなりませんよ。ああ、足音も聞こえてきましたね、もうすぐそこですよ」
言われるがまま入口を見ていると、程なく一人の男が鏡屋の暖簾をくぐった。
「ようこそのお越しで」
「ハの四拾弐番を頼む」
番頭に迎えられた客の声は、鷹村の声まねと寸分違わぬもの。驚いた様子の藤次郎に、鷹村は小さく笑った。
「驚いた。ほんとにそっくりじゃないですか」
「驚いてもらえて何よりです」
「初めて会った人の声もまねできるんですか?」
「ええ、まあ」
「女の声も?」
「やってみましょうか?」
鷹村はおもむろに居ずまいを正し目を閉じた。その様子は音のわずかなさざ波までも捉えようとするかのような静謐さがあった。そして、すっと息を吸う。
『宵の兎は月まで跳ねる 山のすそ野の月まで跳ねる 今日は一人寝手枕を 涙で濡らし夢をみる』