吉原鏡屋之事
『ここは何処 目隠し鬼が野を歩く 鬼さんこちら 手の鳴るほうへ 何も映さぬ鬼の目は 汚れた珪砂の板に住む 鏡の子どもは逃げまどい あっという間に日が暮れる 夕焼け彼岸のわらべ唄 河原じゃいくつも塔が立つ 一つつんでは父のため 二つつんでは母のため 三つつんでは故郷の 兄弟我が身と回向して 河原の石を集めては 回向の塔をつんでいく けれどつんだ塔をば鬼倒す 子ども泣く泣く鬼も泣く 想う子どもの悲しさよ 目隠し鬼の哀れさよ 影はだんだん広がって 夕焼けばかりが燃えている』
三味線の音に乗り聴こえてきた歌声に気がついた者は一体どれだけいただろう。
鷹村は雑踏のなかで立ち止まり歌い手を探した。行き違う人間に幾度かぶつかるが、誰も気にした様子はない。それもそのはず、彼らは皆、立ち並ぶ見世に目を奪われているからだ。
ここは吉原、政府公認の色街だ。政府が赤線と呼ばれる特別区域を設けたのは今から数十年前。その数十年で、この区域は大いに発展した。吉原唯一の出入り口である大門近くには、それぞれに贅を凝らした絢爛豪華な大見世が立ち並び、朱塗りの格子の奥からは大行燈に照らされた遊女が妖艶に誘う、国一番の遊里。古風な妓楼が立ち並び、スーツを着た男たちが女郎を目当てに集う。そんな光景が普通になったのも久しい。
いま鷹村がいる場所は、大門から離れた仲の町に面した、京町二丁目。このあたりは中見世小見世が多く、女郎の格は低いものの男には買いやすい地域だ。あまり贅沢はできなくとも女を買いたい者たちが集っている。鷹村もそのうちの一人だ。誰の馴染み客にもなっていないので、一夜の共寝の相手を探していたときに、あの歌が聞こえてきた。
大見世より格が落ちる妓楼でも、そこから音楽が絶えることはない。色街に音楽は付きもので、多くの女芸者もこの街に住んでいる。しかし、あの歌声は女のものではなく、男のもの。男の芸人は太鼓持ちや幇間といわれ、主に道化をつとめている。座敷の余興に小唄を歌うこともあるだろうが、聴こえてきた歌は宴席で歌われるものではなかった。小さな声だったが深みと張りのある、何とも言えない声だった。
鷹村はその歌に誘われるように、複雑に入り組んだ路地に入っていった。鷹村も何故自分がこうも惹かれるのか分からなかったが、どうにも落ち着かなかった。ただ、もっとこの歌を聴きたいと思っていることだけは分かった。耳の深くに入り込み、そこから脳を冒すような、麻薬にも似た歌声。
「どこだ……?」
北に南に西に東に、一体どの路地を通ったのか鷹村自身も覚えていない。長かったような短かったような、歌声だけが確かに聞こえてくる、そんな道のり。鷹村は入り組んだ路地の一角に立つ、小さな見世にたどり着いた。
その見世は変わった造りをしていた。
張見世には女郎達の代わりに女の大きさそのままの、着飾られ首から木札を掛けられた、精巧な人形が幾体も並ぶ。惣半籬の格子は漆黒で、奥の行燈の燈がてらてらと張見世の中を照らしている。入口にかかっている暖簾には屋号であろう『鏡』の文字と、楼主の名前しか書かれておらず、普通書かれているはずの、遊女の名前が一つもなかった。
歌はこの不思議な見世の二階から聞こえてくる。
鷹村が見世の二階を見れば、窓辺に腰掛けて三味線を爪弾く男の姿。鷹村より一回りほど年下だろうか。着流しの上から夜目でも分かるほどの豪奢な刺繍がほどこされた緋色の仕掛けを羽織っている。淀みなくつむがれる歌声に、鷹村はその場に立ち尽くし、静かに聴き入った。月明かりに浮かび上がるその男は、鷹村が立ち聴いているのに気がつくと、歌をやめ鷹村を見下ろした。
「ご客人ですか?」
「え?」
「誰か買いに来ましたか?」
見世の中の遊女のことだろうか。鷹村はあわてて首を振った。
「いや、客じゃないです。俺は買いに来たわけじゃない。歌が聞こえて、それを辿って来ました。貴方がうたっていた声が聞こえた」
男は鷹村の言葉に少しばかり驚いたようだった。
「そこまで大きな声で歌っていたつもりじゃなかったんですが」
「俺は人よりほんの少しだけ耳がいいんです」
鷹村は普段から他の人間には聞こえない音が聞こえた。誰かが耳打ち話をしていてもその内容は筒抜けに聞こえてきたし、どんな雑踏の中でも見知った人間の足音を聞き分けることができた。些細な声色の違いで、それが嘘か本当かも分かった。しかし、人間関係を築く中で、こんな能力はさまたげにしかならなかった。知らなくていいことを知ってしまうというのは、ひどく疲れる。普段の生活の中ではわずらわしいと思っていただけだが、今日ばかりはこの耳に感謝した。
「どの辺りで聞こえたんです?」
「京町二丁目に面した仲の町で」
「へえ」
男は驚いた声を出すと、くつくつと笑い出した。
「少しだけ、なんてもんじゃないですね、あなたの耳。ここはご覧のとおり、見世がひしめき合ってる上に、京町の中でも奥にある。耳だけを頼りにここまで来るなんて、たいしたもんです」
鷹村は思わず赤面した。耳の良さを褒められることなどなかったし、近くから聞こえる男の声が、なんとも耳障りの良いものだったからだ。
「ご客人、そんなところも何です、中へ入ってください」
「いや、俺は買いに来たわけではないから。中には入れない」
「かまわないですよ。主の俺が許すんです。誰も文句は言いやしない」
「主?」
鷹村が困惑すると、男はさも愉快そうに言った。
「俺は鏡屋藤次郎、この見世の楼主を勤めております」
「へえ、鷹村さんはあの竹久商事にお勤めですか」
「ええ、まあ、平社員ですが」
「ご謙遜を。竹久商事と言えば大企業じゃないですか。社員というだけでもすごいですよ」
一階の内証で藤次郎と向かい合って座る鷹村は、ひどく緊張していた。挨拶もそこそこに出された酒も、あまり咽喉を通らない。
見世に入ると見世の造りが鰻の寝床で、奥に長いことが分かった。高さがあるので窮屈に感じない。小見世に見えたのは外見だけで、中身は江戸町に立ち並ぶ大見世には劣るが十分な大きさの見世だった。
普段客として見世に入る鷹村は、すぐに二階に上がるのであまり広間をよく見たことがなかったが、このような広間は他のどんな見世にもないだろうと思った。見世の天井から釣り下がる八間により照られた広間には、西洋東洋の様々な調度品が置かれ、不思議に妖しく広間を飾っている。四隅に闇がひっそりと息づく室内で、灯かりに浮かぶ藤次郎は、まるでのこの広間のような不思議な容姿をしていた。
短めに切られた髪は天井の灯かりを反射して、根元は深い鳶色、毛先は琥珀へと色を変えている。
鷹村を映す瞳はくりくりと大きく、愛嬌すら感じられるどんぐり眼といったもの。
肌は日頃から室内にいるためか色白だが、袖からのぞく腕には程よく筋肉がついていて、鍛えられていることがわかる。
若者らしい精悍さと、どこか少年らしさをあわせ持つ整った容姿は、このような色街には不似合いで太陽の下が似合うだろう。しかし、派手な仕掛けを着こなす姿はさすが花街の楼主といったところか。
三味線の音に乗り聴こえてきた歌声に気がついた者は一体どれだけいただろう。
鷹村は雑踏のなかで立ち止まり歌い手を探した。行き違う人間に幾度かぶつかるが、誰も気にした様子はない。それもそのはず、彼らは皆、立ち並ぶ見世に目を奪われているからだ。
ここは吉原、政府公認の色街だ。政府が赤線と呼ばれる特別区域を設けたのは今から数十年前。その数十年で、この区域は大いに発展した。吉原唯一の出入り口である大門近くには、それぞれに贅を凝らした絢爛豪華な大見世が立ち並び、朱塗りの格子の奥からは大行燈に照らされた遊女が妖艶に誘う、国一番の遊里。古風な妓楼が立ち並び、スーツを着た男たちが女郎を目当てに集う。そんな光景が普通になったのも久しい。
いま鷹村がいる場所は、大門から離れた仲の町に面した、京町二丁目。このあたりは中見世小見世が多く、女郎の格は低いものの男には買いやすい地域だ。あまり贅沢はできなくとも女を買いたい者たちが集っている。鷹村もそのうちの一人だ。誰の馴染み客にもなっていないので、一夜の共寝の相手を探していたときに、あの歌が聞こえてきた。
大見世より格が落ちる妓楼でも、そこから音楽が絶えることはない。色街に音楽は付きもので、多くの女芸者もこの街に住んでいる。しかし、あの歌声は女のものではなく、男のもの。男の芸人は太鼓持ちや幇間といわれ、主に道化をつとめている。座敷の余興に小唄を歌うこともあるだろうが、聴こえてきた歌は宴席で歌われるものではなかった。小さな声だったが深みと張りのある、何とも言えない声だった。
鷹村はその歌に誘われるように、複雑に入り組んだ路地に入っていった。鷹村も何故自分がこうも惹かれるのか分からなかったが、どうにも落ち着かなかった。ただ、もっとこの歌を聴きたいと思っていることだけは分かった。耳の深くに入り込み、そこから脳を冒すような、麻薬にも似た歌声。
「どこだ……?」
北に南に西に東に、一体どの路地を通ったのか鷹村自身も覚えていない。長かったような短かったような、歌声だけが確かに聞こえてくる、そんな道のり。鷹村は入り組んだ路地の一角に立つ、小さな見世にたどり着いた。
その見世は変わった造りをしていた。
張見世には女郎達の代わりに女の大きさそのままの、着飾られ首から木札を掛けられた、精巧な人形が幾体も並ぶ。惣半籬の格子は漆黒で、奥の行燈の燈がてらてらと張見世の中を照らしている。入口にかかっている暖簾には屋号であろう『鏡』の文字と、楼主の名前しか書かれておらず、普通書かれているはずの、遊女の名前が一つもなかった。
歌はこの不思議な見世の二階から聞こえてくる。
鷹村が見世の二階を見れば、窓辺に腰掛けて三味線を爪弾く男の姿。鷹村より一回りほど年下だろうか。着流しの上から夜目でも分かるほどの豪奢な刺繍がほどこされた緋色の仕掛けを羽織っている。淀みなくつむがれる歌声に、鷹村はその場に立ち尽くし、静かに聴き入った。月明かりに浮かび上がるその男は、鷹村が立ち聴いているのに気がつくと、歌をやめ鷹村を見下ろした。
「ご客人ですか?」
「え?」
「誰か買いに来ましたか?」
見世の中の遊女のことだろうか。鷹村はあわてて首を振った。
「いや、客じゃないです。俺は買いに来たわけじゃない。歌が聞こえて、それを辿って来ました。貴方がうたっていた声が聞こえた」
男は鷹村の言葉に少しばかり驚いたようだった。
「そこまで大きな声で歌っていたつもりじゃなかったんですが」
「俺は人よりほんの少しだけ耳がいいんです」
鷹村は普段から他の人間には聞こえない音が聞こえた。誰かが耳打ち話をしていてもその内容は筒抜けに聞こえてきたし、どんな雑踏の中でも見知った人間の足音を聞き分けることができた。些細な声色の違いで、それが嘘か本当かも分かった。しかし、人間関係を築く中で、こんな能力はさまたげにしかならなかった。知らなくていいことを知ってしまうというのは、ひどく疲れる。普段の生活の中ではわずらわしいと思っていただけだが、今日ばかりはこの耳に感謝した。
「どの辺りで聞こえたんです?」
「京町二丁目に面した仲の町で」
「へえ」
男は驚いた声を出すと、くつくつと笑い出した。
「少しだけ、なんてもんじゃないですね、あなたの耳。ここはご覧のとおり、見世がひしめき合ってる上に、京町の中でも奥にある。耳だけを頼りにここまで来るなんて、たいしたもんです」
鷹村は思わず赤面した。耳の良さを褒められることなどなかったし、近くから聞こえる男の声が、なんとも耳障りの良いものだったからだ。
「ご客人、そんなところも何です、中へ入ってください」
「いや、俺は買いに来たわけではないから。中には入れない」
「かまわないですよ。主の俺が許すんです。誰も文句は言いやしない」
「主?」
鷹村が困惑すると、男はさも愉快そうに言った。
「俺は鏡屋藤次郎、この見世の楼主を勤めております」
「へえ、鷹村さんはあの竹久商事にお勤めですか」
「ええ、まあ、平社員ですが」
「ご謙遜を。竹久商事と言えば大企業じゃないですか。社員というだけでもすごいですよ」
一階の内証で藤次郎と向かい合って座る鷹村は、ひどく緊張していた。挨拶もそこそこに出された酒も、あまり咽喉を通らない。
見世に入ると見世の造りが鰻の寝床で、奥に長いことが分かった。高さがあるので窮屈に感じない。小見世に見えたのは外見だけで、中身は江戸町に立ち並ぶ大見世には劣るが十分な大きさの見世だった。
普段客として見世に入る鷹村は、すぐに二階に上がるのであまり広間をよく見たことがなかったが、このような広間は他のどんな見世にもないだろうと思った。見世の天井から釣り下がる八間により照られた広間には、西洋東洋の様々な調度品が置かれ、不思議に妖しく広間を飾っている。四隅に闇がひっそりと息づく室内で、灯かりに浮かぶ藤次郎は、まるでのこの広間のような不思議な容姿をしていた。
短めに切られた髪は天井の灯かりを反射して、根元は深い鳶色、毛先は琥珀へと色を変えている。
鷹村を映す瞳はくりくりと大きく、愛嬌すら感じられるどんぐり眼といったもの。
肌は日頃から室内にいるためか色白だが、袖からのぞく腕には程よく筋肉がついていて、鍛えられていることがわかる。
若者らしい精悍さと、どこか少年らしさをあわせ持つ整った容姿は、このような色街には不似合いで太陽の下が似合うだろう。しかし、派手な仕掛けを着こなす姿はさすが花街の楼主といったところか。